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【対談】グローバルの流儀

グローバルの流儀 フジサンケイビジネスアイ紙 特別対談シリーズ『グローバルの流儀』は、弊社代表の森辺がグローバルで活躍する企業の経営トップにインタビューし、その企業のグローバル市場における成功の原動力がどこにあるのか、主要な成功要因(KSF)は何かなど、その企業の魅力に迫る企画です。本企画は2015年にスタートし、今年で9年目を迎えます。インタビュー記事は、新聞及び、ネットに掲載されています。


Vol.16 海外売上比率40%超え、マンダムのアジア戦略とは

株式会社マンダム 取締役 専務執行役員 小芝 信一郎 氏

2度の経営危機を乗り越え、より強さを増してきたマンダム

森辺: 株式会社マンダムは大阪市に本社を置く化粧品メーカーで、男性用化粧品においてトップクラスのシェアを誇っています。 主力ブランドの「ギャツビー」といえば、知らない人の方が少ないのではないでしょうか。 まずは御社の歩みや事業内容についてお聞かせください。

小芝: 株式会社マンダムはお陰様で、2017年12月23日に創業90周年を迎えることができました。 実をいうと、この歴史の中で2度の経営危機があったんです。 我が社は、この経営危機を乗り越えることで大きく成長してきたという事実があります。

当社は1927年に金鶴香水株式会社という香水の会社として創業しました。 モボ&モガの時代に、男性がオールバックにする時に使っていたチックやポマードといったヘアスタイリング剤が流行し、 当社の「丹頂チック」が一世を風靡する大人気に。 これを受けて、1959年には丹頂株式会社へと社名を変更しました。 この後、男性ヘアスタイリング剤はチックやポマードといった固形からトニック、リキッドという液体に替わっていくという流れがあり、 その時代の変化に気づくのが遅れた当社はその流れに乗れず、最初の経営危機を迎えることになります。 この時に企業努力により生み出されたのが「マンダム」です。 今でも「うーん、マンダム」というチャールズ・ブロンソンのCMのフレーズが取り上げられることがありますが、それだけ人気があったんですね。 そのブランドヒットに応じて、1971年に社名を株式会社マンダムへと変更しました。

2度目の経営危機は、「マンダム」の大ヒットを受け、販売チャネルをそれまでの代理店契約から直販に切り替えた、 すなわち、お取組先様はじめ市場からの支持を得ないメーカー本位の強引な改革によって危機的状況となったことです。 今から40年ほど前のこと。その後、新生マンダムとして経営体制の立て直しをはかり、何とか今日まで成長してこれました。

現在ではブランドも男性化粧品では「ギャツビー」、「ルシード」、 女性化粧品では「ルシードエル」、「ビフェスタ」、「バリアリペア」などを展開しています。 国内のみならず、海外では10の国と地域で12の会社を展開しています。 1958年にフィリピンに進出し、1969年にはインドネシアに現地法人を設立するなど、 60年間に渡ってアジアを中心にグローバルな事業展開を推進してきました。

その時代に合ったオシャレや身だしなみを提案することで業績を拡大

森辺: 私自身、「マンダムといえばギャツビー」、もっと言えば、「男性用ヘアスタイリング剤といえばギャツビー」というイメージを非常に強く持っています。 この対談をご覧になっている方たちの多くもそうでしょう。「ギャツビー」が圧倒的なブランドを確立するまでには、どのような背景があったのでしょうか?

小芝: 「ギャツビー」は1978年に、25歳以上の大人の男性をターゲットに、リッチ感や高級感を持ったブランドとして誕生しました。 この時のイメージキャラクターは萩原健一です。その後、高級感よりもライトなイメージが求められる時代への変化に伴い、 1982年にコンビニエンスストアを最重要チャネルとした、もっと若い層へアプローチする商品を開発。 1985年にはイメージキャラクターに松田優作を起用し、コスメティックからグルーミング、 つまり、美を追求する化粧品から、より日常的なお手入れ商品へとカテゴリーを拡大しました。 「19歳プラスマイナス2歳」の学生たちに対して、その時代に合ったオシャレを提案してきたというところが男性化粧品市場の拡大につながり、 その中での存在感を確立してきました。

森辺: 松田優作、木村拓哉、松田翔太と、歴代の「ギャツビー」のイメージキャラクターは、ターゲット層よりも少し年上のタレントなんですよね。 私も中学生ぐらいの時に少し年上の俳優さんのCMを見て、 「ああなりたい」という憧れからフォームを買ったというのが一番最初にヘアスタイリング剤を使ったきっかけでした。 少し先の未来を生活者に見せた結果、それが生活者のニーズにグッとつながっていったということですね。

小芝: お兄さんが「お前、これ使えよ」と言うように、同世代よりも少し上の人たちがちょっぴりタブーラインを超えた商品を提案する。 それまで男性にとっては手の出しにくかったものでも、常に提案し続けてきた結果、新しい化粧行動が定着し、市場が出来上がったのだと思います。 また手ごろな価格で買える商品だからこそ、一気に広がっていったのでしょう。 スタイリング剤から始まった「ギャツビー」ですが、そこから現在までに、ボディケアやフェイスケアへとどんどんカテゴリーを広げてきました。 1つの商品を気に入ってくれた生活者が、「じゃあ次はギャツビーの洗顔料を使ってみようか」、となるわけです。 すべての生活者に対してこのような提案をし続けてこられたというのが、ブランド確立の後押しになったのではないでしょうか。

森辺: なるほど。それが御社のマーケティング戦略、もっといえばブランディング戦略の一つだったわけですね。 少し先の未来を少し目上の人から訴求していくことによって、生活者を惹きつけてきたという。素晴らしいです。

小芝: 薬にはマイナスからゼロに持っていく力があります。化粧品の場合はマイナスからゼロよりも、ゼロからプラスに引き上げる力への期待が強い。 その点では1歩先、半歩先という訴求の仕方が生活者の心を掴んだのでしょう。 男性化粧品マーケットは女性の10分の1ぐらいしかないといわれています。 その中で、男性の少しでもオシャレになりたいという願望を叶えてこられたのが勝因だったと思いますね。

創業の精神を礎に、一貫して「生活者へのお役立ち」を追求

森辺: 御社は長い歴史の中で2度の経営危機に直面されたというお話でしたが、ここ8期にわたっては連続で過去最高売上高を更新し続けています。 ここ数年の事業の成長の強さの要因とは、どのようなことだとお考えでしょうか。 まずは国内における要因をお聞かせいただけますか?

小芝: 第一にいえるのは、私たちは90年間にわたって、創業の精神を礎に「生活者へのお役立ち」を追求してきたことだと思います。 「生活者へのお役立ち」という考え方が、社員一人一人に浸透していたからこそ、大きく成長してくることができたのでしょう。

1つ例を挙げれば、先ほどお話ししたCMについてもそうです。 通常は売上拡大のためにプロモーションを打つものですが、当社ではプロモーションには、 よりよい商品をいち早く生活者にお伝えする役割があると考えています。 この費用は、もともとは生活者が私たちの商品を購入する時に支払ってくださったお金です。 それを生活者に還元したいという想いが根本にあります。

森辺: CMは、商品を売るための巧みなマーケティング戦略の一つだと思っていましたが、生活者への還元の意味があるとは驚きです。 御社はユニークなCMでもお馴染みで、そのインパクトは見た人が10年、20年経っても覚えているほどです。 超一流の俳優を使い、インパクトが大きく、ネットで炎上するかしないかのギリギリのところを攻めていくような、 生活者に「刺さる」CMは世間でも高い評価を受けています。 このCM1本に対して、関わっている人たちの想いがきっとすごく強いんだろうなぁ、と思っていましたが、 それは「生活者に還元したい」という想いから来ているということになるのですね。

小芝: そうですね。私は去年まで6年間、 ATL(Above the line – テレビ、新聞、ラジオ、雑誌を使ったプロモーション)を担当していたんですが、 おっしゃる通りギリギリですよね(笑)。 これまでのクリエイティブをふまえて、CMクリエーターの皆さんは本当に突き刺さる提案をしてくれる。 一方でやはり、こういうご時世なので、一歩間違うと炎上してしまうという恐ろしさもある。 そのギリギリのラインで楽しさや面白さを持たせるのが勝負なんです。 そういった当社のクリエイティブは、広告制作基本方針に基づいて、独自のクリエイティビティとして、 「憧れ」や「親近感」が得られる旬なキャラクターを採用して、ブランドとの距離感を縮めることを大きな目的としています。 ブランドと生活者の距離を縮めるためには、私たち大人の固い考え方ではなく、 「19歳プラスマイナス2歳」というターゲットにとっての「憧れ」や「親近感」が重要なんです。

CMを1回見ていただくだけで、きっちりと記憶に残り、そして興味を持っていただく。 そして商品を店頭で見た時にもう一度思い出して、購入していただく。

こうしたクリエイティブを通したコミュニケーションへのこだわりや方針は、経営トップから外部委託先のクリエイターにまで浸透し、 関わるすべての人たちの熱い想いになっているといえるでしょう。

森辺: 生活者への還元という意味では、商品を買う、買わないにかかわらず、 CMを見た大勢の人を楽しませることも大きな意味では還元になっているとも思いますね。 また、近年では女性化粧品の売上が好調なのも、8期連続過去最高売上高の更新につながったのはないでしょうか?

小芝: 当社は女性化粧品にそれほど強くないことがネックでしたが、 この8年間の中で、「ビフェスタ」や「バリアリペア」という女性用の商品群がプラスオンできたことが功を奏し、 着々と実を結んできたんだと思います。 男性化粧品対女性化粧品の事業比率は約6対3(その他が1)まで伸びてきました。 また、男性化粧品の中でも「ギャツビー」とは少しターゲッティングを変えて、ミドルエイジ向けの「ルシード」を販売しています。 近年よく話題に上る「ミドル脂臭」といった特有の悩みに対して応えていく商品への人気が高まり、これも売上の好調に貢献しているんです。

海外売上比率40%超えの要因は、中間層からブレないこと

森辺: インドネシアを中核に海外展開を進め、現在、海外売上比率が40%を超えているという御社ですが、 海外における業績好調の要因はどこにあるのでしょうか?

小芝: 当社はアジア各国を生産拠点として捉えるのではなく、生活者にお役立ちするマーケットとして捉えて、 事業活動を推進してきたことが大きいといえるでしょう。 お陰様で、経済成長著しいアジア各国にある海外グループ各社においては、男性化粧品、女性化粧品ともに好調です。 当社は1958年にフィリピンで現地の企業に技術を教えることから提携が始まったのを皮切りに、60年間にわたって海外展開を続けてきました。 各国のGDPや生活者の欲求の高まりとともに、確実に売上が高まってきているという実感があります。

森辺: 1958年というと、日本の消費財メーカーにしてはかなり早い海外進出ですよね。 瑞ネスレや米P&G、欄英ユニリーバといった先進グローバル消費財メーカーですら、1980年代からASEANを主戦場と捉えて徐々に出て行きました。 それほど早くフィリピンに進出されたという背景には、どのようなことがあったのでしょうか?

小芝: 1958年にフィリピンの工場で技術提供という形で生産を始める前に、日本で流行した「丹頂ポマード」という商品がアジア各地に輸出されていました。 当時は特に戦略を練ることもなく、口コミでどんどん広がっていったという形です。 今でいうSNS上で情報が広がっていくという現象が、50年代には本当に口から口、手から手に伝わっていったという感じでしょう。 そこから長い時間をかけて、着実に売れてきたわけです。

森辺: アジア市場における貴社の成功には、どんな秘訣があったのでしょうか? 貴社の戦略の基本方針を教えてください。

小芝: 「ギャツビー」は、特に高級なわけではなく、いわゆる一般大衆のための商品です。 どの国でも「ターゲットは中間層」というコンセプトから絶対にブレることなく、各国のターゲットが求めるものを提供してきました。 多くの日本の化粧品メーカーが、日本で売れている商品をいかに現地でそのまま売るかを追い求めますが、 当社ではブランドコンセプトやターゲットはどの国においても変えないものの、 現地のターゲットが望む商品を新たに開発して、日本とは全く違う商品も提供しています。 ここが、当時の先達たちの努力の賜物であるといえるでしょう。

一般的なヤング男性をターゲットとして展開することは日本と同じ。 「ギャツビー」が持つブランドコンセプトも日本と同じ。 ただし、ターゲットのニーズは国によって異なるため、現地生活者の嗜好、所得、生活スタイルに合った商品を開発して販売してきたんです。 現地の物価に合わせて買いやすい価格帯、サイズバリエーション、高温多湿の気候風土に適した使用感などを追求して商品開発を行った結果、 早期に商品が現地の市場に定着していきました。

森辺: そもそも消費財なので、アジアにおいても日本同様にマスをターゲットにしなければなりませんよね。 その中でよくあるのが、日本企業は中間層が大事だと分かっていながらも、 「上位中間層」や、「まずは富裕層の獲得から」などという逃げの方法を生み出して、ターゲットが上振れしていってしまうことです。 その原因は、日本での成功体験のある商品を、できればそのまま、ASEANなので少し安くする程度で買ってくれたら良いな、 という考え方が強いこと。 なかなか中間層を正面から捉えることができていない日本企業が大変多いです。 御社はそうではなくて、最初から現地の中間層が何を求めているかというところにフォーカスをして、 「ターゲットは中間層」というところから決してブレない。 そして、「ギャツビー」というブランドは世界標準化させていき、 その中身を現地の中間層が求めるものに現地適合化させていったというわけですね。素晴らしいですね。

小芝: その国に対して、また日本と同じターゲットに対して、何らかのお役に立ちたい。 そのためには、日本で売っている商品をそのまま売るという方法では、GDPの低い国の場合はターゲットが上振れしてしまいます。 私たちはターゲットとブランドを尊重した結果、商品の中身やパッケージを再開発するという結論に至ったんです。 商品のサイズについてもそうで、品質を保ったまま安くするには限界がありますが、 1、2回分が小袋に入った低価格のサチェットや30g、50g、70gサイズなどの商品を取り揃えることで、 彼らの所得に合わせることができました。

森辺: サシェットというのは、ASEANの伝統的小売ではポピュラーな商品形態ですね。 店先にところ狭しとさまざまな商品のサシェットが吊るしてあります。 なぜこのような使いきりサイズがASEANで求められているかというと、 彼らにとってはキャッシュフローが大変重要だからですよね。 日本で売っているような2、3カ月分入ったサイズのポマードやジェル、フォームの方がグラム当たりは割安であっても、 彼らにとっては今日、デートの前にさっと使えるものが必要なんです。 そもそもまだ毎日は使わないかもしれないし、仮に毎日使うとしても、 数ヶ月先の分までボトル買いするような余裕は彼らにはないんですよね。

個人のキャッシュフローが重要な国の生活者にとって、サシェット売りがいかにニーズが高いかに気付き、 いち早く採用したという御社の取り組みは素晴らしいと思います。 これにより、現地の伝統的小売の流通にも乗っていけたわけですね。 日本企業は理屈では分かっていても、それを実行できているところは稀です。 慣れ親しんだ近代的小売でまずは売ろう、伝統的小売はそのうちやろう、と考えているうちに、勝機を逃してしまうんです。

これまでのお話の中で、御社の強さは、マーケティング・ミックス(4P)のうち、 商品(Product)、価格(Price)、流通(Place)、プロモーション(Promotion)において、中間層をしっかり捕らえていることがわかりました。 御社の戦略は一貫して中間層をターゲットにし、そのための4Pがしっかり連動している。 アジアへの進出が極めて早かったという先見の明も加わり、成功につながっていったのでしょうね。 勿論、その全ての前提になっているのが、貴社の創業の精神である「生活者へのお役立ち」であることは言うまでもありません。

インドネシアでは1万4千の島々にまで「ギャツビー」が浸透

森辺: 「ギャツビー」はインドネシアでは完全に現地に根付き、ジャカルタでのブランド認知度はほぼ100%とのこと。 さまざまなメディアを通じ、「アジアにおける成功事例」としていろいろな企業が紹介されていますが、 中でも、インドネシアにおける御社の成功は、ケーススタディーとしては非常に学びが多いと感じます。 御社のインドネシアでの展開について、詳しく教えていただけますか?

小芝: 先ほど森辺さんがお話しされた、「一貫して中間層をターゲットとした4P」を展開していく中で、 インドネシアには1969年という、やはり早い段階で着手することができました。 これに至るいきさつは、本格参入前から華僑のネットワークにより香港からインドネシアに商品が流れ、 輸出という形で販売していったところ、インドネシアでポマードが売れているという情報があり、そこに市場の可能性を見出したんです。 そこで、輸出するだけではなく、生活者発、生活者着の実践のため、工場を作りに行こうと。 ヒト・モノ・カネを投入してインドネシアに合弁会社を設立しました。 それがインドネシアに進出した経緯です。 男性化粧品市場、特に男性ヘアスタイリング剤市場が確立される前から参入することで先駆者メリットがあり、 市場定着が図れたというのは間違いなくあったと思います。

しかし、先駆者ならではの苦労も大きかった。現当社代表から聞いたんですが、 当時、インドネシアに赴任していた代表は、 「空を見上げてツルのマークの飛行機が飛んでいるのを見ると、涙が出ちゃうんだよね」と話していました(笑)。 当時はインターネットなんてまだ普及していない時代で、電話回線を利用したテレックスで通信しても、返信までに1週間以上かかってしまう。 そうすると、本社の決断を仰いでいる時間はなく、結局は何から何まで自分が決めなくちゃならない。 そういう中で、先達方が苦労を重ねたお陰で、現地に根付くことができたというわけです。

森辺: 1969年といえば、私が生まれる5年も前です。 ジャカルタは今でもペットボトルにガソリンを入れて路上で売っているような街で、 インドネシア全体でも伝統的小売が300万店に対して近代的小売が3万店ぐらいしかないような市場。 それが50年前となると、当時のインドネシアはまだ政治的にも不安定だったし、 ほぼすべてが伝統的小売で、コンビニもほとんどない中で売りに行ったわけですね。 そのパイオニア精神には、私は鳥肌が立つほど感動します。やはりそれが今の強さに結びついていることは間違いないでしょうね。

小芝: 当社のインドネシアにおける強みは3点あると考えています。 1点目は今お話しした、マーケティングと工場を早期に設立できたこと。 もう1点は、プラスチック成型を自社で行ったことです。 要は、容器を自社工場で作っているんですね。 通常、化粧品会社は、容器は外注して中身と充填を自社で行い販売していく。 これに対し、私たちはインドネシアにプラスチック成型の工場を持つことでコストダウンを図りました。 より大衆ど真ん中の生活者に対して、適切なコストで使っていただける環境を整えることができたんです。 容器製造から仕上げまでのスピード化により、安定した品質の商品を供給できる体制が早くからありました。

3点目は、海外展開で最も難しい販売流通網(ディストリビューション・ネットワーク)。 1万4千ほどの島々があるインドネシアでは特に難しいといえるでしょう。 それが、当社は幸運なことに、伝統的小売に強くて小さな島々まで流通させることができる、素晴らしいパートナー企業に出会うことができました。

多くの日本企業はジャカルタの近郊だけで販売をしていますが、 私たちはこの50年間という歴史のお陰で、生活者を起点にしたマーケティングとモノづくり、プラスチック成型工場、何より流通という強みを獲得。 インドネシアの国中どこに行っても当社の商品が手に入るという現在の状況に至ることができたんです。

森辺: 1万4千の島々からなるインドネシアで、300万店の伝統的小売に自社商品を浸透させるためには、尋常ではなく強固な販売チャネルが必要です。 そのためには、優秀なディストリビューターを何社も抱え、 それをネットワーク化して、ディストリビューション・ネットワークを構築していかなければならない。 そのレベルは、瑞ネスレや欄英ユニリーバが作っているようなマイクロ・ディストリビューションと変わらないくらいですね。

多くの日本企業の場合は俗人的な成功が多くて、インドネシアに駐在していた人がたまたま優秀だったからチャネルが出来上がった、 というようなことがよくあるんですが、そうではなく、1つのモデルとして仕組み化されているというのが御社の強みですね。 50年前から着実に作り上げてきた成果だと思います。

小芝: 現在ではインドネシア国内への流通だけではなく、インドネシアで生産した商品をASEAN各国へ輸出もしています。

伝統的小売に強いディストリビューション・ネットワークを構築

森辺: インドネシア以外の近隣諸国でも「ギャツビー」の認知度は高いですよね。首都圏においては特にそうです。 また、どの国においても販売チャネルをしっかりと構築しているのが素晴らしいと感じます。 商品力と販売チャネルはどちらかだけでは不完全で、御社のように両輪で、 もっというと、プロモーションも入れて三輪で取り組んでいくのが理想的だと思います。 他の日本企業にとっても御社は大変参考になるケーススタディーだと感じます。

そこで、販売チャネルについてお聞かせください。 よく言われるのが、日本企業は商品は良いものの、チャネルが弱いということ。 商品を水に例えると、その水を通す水道管がディストリビューション・ネットワーク、つまりはチャネルです。 その先にある蛇口が小売りであり、生活者が蛇口を捻ることで商品が手に入ると、こうした構造になっています。 この構造の中では水道管をいかに隅々まで通すかが重要。 つまり、ディストリビューション・ネットワークというチャネル作りがしっかりできていないと、 せっかくの良い商品も物理的に生活者には届かないわけです。

近代的小売の数が限られるASEANでは、一番多いインドネシアですら3万5,000店で、一番少ないベトナムだと2,000店ぐらいしかない。 尚且つ、近代的小売は、多額のリスティングフィーや、協賛プロモーション費用が嵩みます。 このような状況であるASEAN市場、特にVIP(ベトナム、インドネシア、フィリピン)では、近代的小売だけを狙っていては商売になりません。 数十万、数百万店ある伝統的小売をいかに攻略するかが勝敗を分けます。 この重要かつ多くの企業が挫折しがちな販売チャネルの構築において、御社はどのように取り組んでこられたのでしょうか?

小芝: まずは、「私たちの商品と生活者との接点はどこにあるのだろうか」を考えるところから始めました。 これは国によって違います。 特に80年代、当社では香港やシンガポール、マレーシア、タイ、フィリピンと、多くの国で合弁による販社を設立しました。 これらの国々には、GDPから見ると大きな差があります。 その中で商品と生活者の接点を考えつつ、日本で開発されて日本で作られた商品群と、 インドネシアで作られた商品群、どちらを流通させるのがふさわしいかを考えました。 要は、伝統的小売が中心の国であれば、当然ながらインドネシアの商品を持っていく。 そして、近代的小売を中心に攻めていかなければならない国であれば、日本の商品を持っていく。両方扱っている国もありました。

そして、ポイントとなるのはやはり流通なんですが、 これは過去から先達が、確実に商品を流通できるノウハウをパートナーと協業で築き上げることができていたので、 スムーズなチャネル構築につながりました。

森辺: 当時は外資規制があり、合弁という形を取らざるを得なかったという背景があったでしょう。 今は独資での海外進出がトレンドになっています。 消費財メーカーが現地企業との合弁で失敗しているケースは結構あって、 「合弁しました!」とドーンとIRニュースに出すものの、3年、4年するとお互いの思惑の違いが見えてきて、 合弁解消という結果に終わってしまうんです。 現地の企業に技術力を吸われただけで、工場を捨て値で売却して撤退するという…。 しかし、御社の場合は、1つは通常の企業より早いタイミングで合弁できたことが良かったのでしょう。 一般的な日本企業よりも10~15年、中には20年ぐらい早いことで、おそらく合弁先に数少ない優良企業を掴むことができたんだと思います。 もう1つは、パートナー企業を選定する目が長けていたんでしょうね。

小芝: そうかもしれません。 海外に出た当初、すでに貿易という取引をしている相手先と早い時期から良好な関係を結べたことがポイントだったと思います。 貿易の時代からの実績により、当社を信頼してもらえたことで、日本が上とか現地が上ということではなく、 対等の立場で連携を取りながらやってこられたというのが、今のメリットにつながっているんでしょう。 失敗された日本企業は、そこのところを忘れてしまったのかもしれませんね。 とはいえ、私が香港に赴任していた80年代後半、販売チャネルを構築できたのは、 やはり先達がきっちり頑張ってこられたことによる恩恵だと思います。

森辺: 確かにそうですね。それからディストリビューターについても、私は仕事柄、いろんな国のディストリビューターと会いますが、 「ここは良いディストリビューターだな」と感じると、すでに競合他社の商品を取り扱っているということが少なくありません。 御社はディストリビューター選びにも長けているという印象です。 ディストリビューターは社員の方が選定されているんですよね?

小芝: そうです。ただ、日本からジャッジしてるわけではなく、基本的にはディストリビューターは現地に出向している社員の判断で選んでいます。 もちろん、どのディストリビューターが一番、私たちの商品を生活者に届けられるだろうか、という観点で判断しているはずです。

森辺: 遠い日本から、よく分からないことに判断をする、もしくは判断を先送りするのではなく、とにかく、現場に一番近い社員に任せて決めさせる。 御社には創業者のDNAがしっかり受け継がれている感じを受けますね。

若い世代を責任ある海外赴任に抜擢し、香港、中国へ進出

小芝: かくいう私も、実は29歳の時に、「香港に行って会社作ってこい」と言われて香港に赴任したクチです(笑)。 新卒で入って7年目ですよ。現地にパートナー企業はありましたが、それ以外のジャッジはすべて自分任せ。 「あとは好きなもの選んで良いから」って…。

森辺: 面白い会社ですね。20代でそんな責任ある立場で海外赴任って、普通はそんな貴重な経験させてくれないですよね。 若い世代を成長させようという文化が根付いているんでしょう。「歴史あるベンチャー企業」といった感じですね。

小芝: 私が入社した時から既に、本社とその他ではなくて、本社もアジア各国も、全てが1つのパッケージに入ってるようなイメージです。 今の若い世代では、ますますその色が濃くなってきていると感じます。

1993年に合弁により香港を立ち上げてから、概ねうまく商品が動くようになると、 その後に、香港からフェリーと陸路で1時間半か2時間ぐらいのところにある中国・広東省の中山市という場所に工場を作ろうという計画が持ち上がりました。 中国の解放政策後、中国への海外企業の参入が活発化した時期です。 中国の経済が成長するに従って、若者の身だしなみやおしゃれに対する意識の変化に可能性を感じたことがきっかけです。 香港での好調を受けて、遠い上海ではなく、香港の影響が極めて強い広東省から中国を攻めようという戦略でした。

ここでも、「じゃあ、行ってきて」という上司の一言で、私の中国赴任が決定(笑)。 現地に行き、パートナー企業と一緒に、どういう形で会社を作り工場を作ったら良いのか、という話し合いから始めました。 当時の中国では基本的に独資は認められなかったんです。 それと、海外企業との合弁で国内に工場を持って外貨を稼ぐことはOKでも、国内で儲けたお金を外に出すことは、なかなか難しい時代だった。 ですから、最初はやはり国営企業との合弁という形で、1996年に製販子会社の設立となりました。

これまでの国はすでに商品が流通していたため、参入は比較的スムーズでしたが、中国の場合は流通作りからのスタートとなったため苦戦。 また、国内工場での生産ロットの問題もありました。しかし、今では安定したグループ会社に成長しています。

森辺: また「行ってきて」なんですね(笑)。 多くの日本企業が中国で内需を取り込もうと“本気”で動き出したのは、せいぜいここ10年ぐらいじゃないかと思います。 中国においても進出は他社より5年ぐらい早いわけですよね。 当時の中国は今とは違い、人々は人民服か黒やグレーの服を着て、自転車をひたすら漕いでいるという印象があります。 まだ暗い共産国の色がすごく強くて、上海でさえテレビ塔以外何もないような。そんな時代の中国で、製販子会社を出したんですね。

それから中国では、2008年に上海に販売子会社を設立されましたね。こちらはどのような取り組みなのでしょうか?

小芝: 広東省の製販子会社は販売拠点としても機能していましたが、やはり中国経済の中心は上海です。 上海にマーケティング会社を作って取り組まないと大きな成長はないと考えました。 上海を拠点とするマーケティングに特化した販売会社を設立し、市場でのマーケティングをさらに強化したんです。

例えばATL(Above the line – テレビ、新聞、ラジオ、雑誌を活用したプロモーション)では、 テレビCMといっても中国では何十チャンネルもあるので、 きっちりとターゲットに対して商品を勧められるチャンネルや時間帯を選ぶことが必要になります。 この取り組みは今でも継続して行っているんですよ。 それからBTL(Below the line – イベント、ダイレクトメール、店頭POPなどを活用したプロモーション)では、 大学でサンプリングイベントを実施。ヘアスタイリング剤商品の認知度アップと、トライアルの機会を創出するイベントです。 大学でのイベントは、近い将来のユーザー確保に向けての大事な活動でした。

こうした取り組みの中、中国で生まれたヒット商品は、 金地に赤の文字という、「いかにも中国」なパッケージデザインのハード系スプレーです。 しっかり固まるタイプのスプレーは、当時の中国には品質の優れたものがなかったので、当社の品質は中国の生活者に適合しました。 金や赤は日本であれば男性化粧品に使うことはまずないですが、 中国では国民的に好まれる色であることから、生活者の嗜好を重視してデザインカラーとして採用したところ、 思いもよらないヒットとなったんです。 今後はインドネシアを重点エリアとして継続強化する一方で、第二の柱として中国の売上比率を高めていく方針を掲げています。

森辺: 中国も小売りが不動産化して、多額のリスティングフィーを取ったり、多額のプロモーション費用をメーカー側が強いられたりという、 非常に特殊な市場なので、いろんな難しさがあると思います。 とはいえ、何せ13億人の市場であり、世界第2位の経済大国ですから、御社が第二の柱として中国を選ばれるのは納得です。

創業100周年を迎える2027年までに、さらなる発展を画策

森辺: 2027年には、御社は創業100周年を迎えられますね。 100年続く企業って、本当にすごいと思います。 2027年までに、御社はどのような海外展開をお考えでしょうか?

小芝: 2027年までに、海外売上比率を現在の41%から65%へ、大きく向上させていくという目標を掲げています。 その準備として、2018年に、マーケティング部門を大阪の本社から東京の青山に集約しました。 当社の強みであるアジアでの展開力をさらに強化していくために、まずはマーケティング部門の人材交流を盛んにし、 共有した理念のもとで生活者への理解力と提案力を上げていくべきだと考えたためです。 これだけグローバル化が進み、国同士の格差がなくなっていくと、やはりマーケティングは徐々に均一化されていくでしょう。 そういう中で、やはり東京という地に拠点を設けながら、アジア全体のマーケティングに取り組んでいく必要があります。

また、情報が世界中を駆け巡り、若者たちはネット・コミュニケーション空間で国境を越えてつながり、 お互いに影響を与え合っている時代。 マンダムグループとしてキャッチした世界の潮流をいち早く、素早く共有することで、 各国で得たヒントや知見を集約して、グループ全体へフィードバックしていくことが大切です。 マーケティング部門を青山に集約することで、世界の情報の受発信力を高め、グループ間での人事交流も盛んにして、 開発やマーケティングの質と速度を上げていきたいと考えています。

実際に今、拠点を移すだけではなく、既に外国籍の社員が数人、青山のオフィスで働いているという状態です。 将来的にはオフィスで使用する言語も多様化されていくのではないかと考えています。

森辺: 日本企業から、よりグローバルな企業に転換している、まさにその最中という感じですね。

小芝: これからの10年で、世の中には大きな変化が訪れるでしょう。 過去の10年を見ても、生活者の様子はすっかり変わっています。 今やスマートフォンを持ってない人はほとんどいない。スタバがない国はほとんどない。 そして、いつでもどこにいてもインターネットでつながってコミュニケーションが取れる。 次の10年はどれだけ変わっていくのだろうかと考えるとワクワクする反面、不安もありますね。 ただ、私たちがすごくラッキーなのは、化粧品メーカーなので、技術革新によって変化をしていくというよりも、 心を豊かにしていくような商品を扱っているという点です。 生活者のレベルが上がれば上がるほど、当社の商品を使っていただける可能性が高まっていく。

このことから、アジアでの戦略は2つ考えられます。 1つには、1人でも多くの人に届けられるよう、更に販売チャネルを強化(広める)していくこと。 もう1つは、1人の生活者にとってのマインドシェアを高めていくこと。 この、広めていくことと、高めていくことの2つを追求することが、お役立ちの深掘りをさらに進めることにつながると考えています。

森辺: 本当に男性が使う化粧品のアイテム数は増えましたからね。 昔はスキンケアといえば一部のセレブが使うようなイメージでしたが、今ではごく一般の中間層の方が使っています。 生活のレベルが上がれば使うアイテムが増える、心も豊かになるというのはよく分かりますね。

小芝: そしてタイミングとしてすごく良いのが、現在、海外からの観光客が年間3千万人といわれています。 これによってどんなことが起きているかというと、海外に行くと日本の商品で溢れかえっているんですよ。 私が香港に赴任していた90年代にはそうではなかった。 日本に帰るたびに、レトルトのカレーをはじめ、食べ物から何から、スーツケースいっぱいに詰め込んでいました。 香港ですらそのような状態だったんです。それを考えると随分変わってきましたよね。

日本の品質、技術、それに対するこだわりが世界中で今、評価されています。 かつて家電や車が「Japan is No.1」と言われていたことがありますが、 今は食品や化粧品といった消費財において、日本の商品がやっぱり良いんだ、というのが時代の流れ。 爆買いを見てもそれがよく分かりますよね。 私たちは、「本社を日本に持つアジアの会社」として、日本のクオリティーをしっかりとアジアの皆様に提供していきたいと思っています。 基本的な考えとして「お役立ち」という精神があるので、よりお役に立てる場所に、1秒でも早く商品をお届けしたい。 そして私たちの商品を使っていただいたことによって、何らかのベネフィットを感じていただければありがたいと考えています。

森辺: 「本社を日本に持つ、アジアの会社」、すごく良い響きですね。今後の御社のグローバル展開が益々楽しみです。

ゲスト

小芝 信一郎

小芝 信一郎 (こしば しんいちろう)

株式会社マンダム 取締役 専務執行役員

Shinichiro Koshiba, mandom

1987年に入社。6年の国内営業部門を経て、1993年には香港の合弁会社SUNWA MARKETING Co., Ltd.に専務取締役として赴任。その後1997年には中国の合弁会社(現)ZHONGSHAN CITY RIDA COSMETICS Co, Ltd.で経理として勤務。2002年に帰国した後は、国内の営業部門に着任。2013年に常務執行役員に就任し、マーケティング統括を担当。現在、取締役専務執行役員として海外事業統括を担当。

インタビュアー

森辺 一樹

森辺 一樹(もりべ かずき)

スパイダー・イニシアティブ株式会社 代表取締役社長
法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科 特任講師

Kazuki Moribe, SPYDER INITIATIVE

1974年生まれ。幼少期をシンガポールで過ごす。アメリカン・スクール卒。帰国後、法政大学経営学部を卒業し、大手医療機器メーカーに入社。2002年、中国・香港にて、新興国に特化した市場調査会社を創業し代表取締役社長に就任。2013年、市場調査会社を売却し、日本企業の海外販路構築を支援するスパイダー・イニシアティブ株式会社を設立。専門はグローバル・マーケティング。海外販路構築を強みとし、市場参入戦略やチャネル構築の支援を得意とする。大手を中心に17年で1,000社以上の新興国展開の支援実績を持つ。著書に、『「アジアで儲かる会社」に変わる30の方法』中経出版[KADOKAWA])、『わかりやすい現地に寄り添うアジアビジネスの教科書』白桃書房)などがある。