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グローバルの流儀

グローバルの流儀 フジサンケイビジネスアイ紙 特別対談シリーズ『グローバルの流儀』は、弊社代表の森辺がグローバルで活躍する企業の経営トップにインタビューし、その企業のグローバル市場における成功の原動力がどこにあるのか、主要な成功要因(KSF)は何かなど、その企業の魅力に迫る企画です。本企画は2015年にスタートし、今年で4年目を迎えます。インタビュー記事は、新聞及び、ネットに掲載されています。


Vol.35 「のどのケア」から社会貢献するのが龍角散の存在意義

株式会社龍角散 代表取締役社長 藤井 隆太 氏
「のどのケア」から社会貢献するのが龍角散の存在意義

『ゴホン!といえば龍角散』のキャッチコピーで知られる「龍角散」。 東京都千代田区にある製薬会社、株式会社龍角散が提供するのどの薬だ。 江戸中期、秋田藩の家伝薬として発祥し、200年以上もの間、日本ののどを守ってきた。 現在では龍角散シリーズに加え、服薬補助ゼリーやのど飴へとステージを広げている。 現在の代表取締役社長を務めるのは、8代目にあたる藤井隆太氏。 社長就任当時、龍角散は倒産寸前だったという。 そこから会社を再生させた。そこには一体、どのようなストーリーがあったのだろうか。

江戸時代から藤井家に伝承され、改良を重ね進化してきた「龍角散」

森辺: 「龍角散」を知らない日本人はほとんどいないでしょう。 それだけ伝統のある薬を、藤井家が代々受け継ぎ、改良を加えてきたと聞いています。 まずは「龍角散」と藤井家の歩みを教えてください。

藤井: 「龍角散」の原型は、江戸時代の中期、秋田藩の家伝薬として伝えられていたもので、 江戸時代後期に秋田藩佐竹家の御典医である藤井玄淵によって創製され、藩薬となりました。 蘭学を学んだ2代目の藤井玄信が漢方薬に西洋生薬を取り入れ改良しました。 3代目の藤井正亭治が、藩主・佐竹義堯の持病である喘息を治すために、この薬を改良し、現在の処方の基礎を確立したと伝えられています。 ちなみに、この時期に「龍角散」と名付けられたようです。 明治維新の廃藩置県によって秋田藩から藤井家に下賜され、一般向けの薬として売り出しました。 1871年に藤井家は東京神田で薬種商を創業。1893年に4代目の藤井得三郎が微粉末状の製剤を完成させ、藤井得三郎商店を開業しました。 1945年にはアジア諸国へ輸出をスタート。1964年に株式会社龍角散へ改称しました。

1998年には世界初のゼリー状オブラート、『龍角散嚥下補助ゼリー』を発売し、新たな市場を開拓。 2013年には秋田県仙北郡美郷町と地域活性化包括連携協定を締結し、国産生薬栽培を開始しました。 国産の優良生薬の安定供給を実現するとともに、休耕田など遊休資産の活性化と有効活用を目指しています。 2019年には中国OTC医薬品のトップメーカー、華潤三九(カジュンサンキュウ)とパートナーシップを締結することを発表しました。 日本だけではなく、米国、欧州などでも特許を取得し、韓国Boryung社の安山工場を外国製造所とするなど、グローバルな視野で事業を展開しています。

森辺: 日本では多種多様な家庭薬がビジネス展開されていますが、御社の「龍角散」はビジネスではなく、 「喘息で苦しむ藩主のために」という想いから生まれたものだったのですね。

藤井: そうです。「自社の利益の前に人様の健康を願う」という想いは、時代が変わっても譲れない、当社のポリシーだと思っています。

森辺: そのポリシーのもと、現在はどのような商品を展開していらっしゃるのでしょうか。

藤井: まず、皆さんご存じの龍角散シリーズは、微粉末の生薬がのどの粘膜に付着して直接作用する「龍角散」のほかに、 携帯に便利な個包装の「龍角散ダイレクトスティック」、さわやかなマンゴー味の「龍角散ダイレクトトローチ」があります。 また、ゼリー状のオブラート、「らくらく服薬ゼリー」シリーズは、1998年の開発以来、 各業界より高い評価を受け、日本薬剤学会「製剤学奨励賞」、安藤百福賞「発明発見奨励賞」、発明協会「発明奨励賞」をいただきました。 それから、食品としては「龍角散のハーブパウダー」を使用した「龍角散ののどすっきり飴・タブレット」を展開しています。

音楽家と10年間のサラリーマン時代を経て、突然、8代目社長に就任

森辺: 8代目である藤井社長が就任された1995年当時、御社の経営は火の車だったそうですね。 それをどのように立て直し、再生させたのでしょうか。 まずは藤井社長の経歴から教えていただけますか?

藤井: 私は音楽好きの両親の影響で3歳からバイオリンを習いました。 その後、フルートに転向し、プロの音楽家として活動していました。 国際コンクールで優勝したこともあったんですよ。 現在でも社長業を行いながら、フルート奏者としてチャリティーコンサートに出演することもあります。 私はもともとビジネスにも興味があり、ビジネスの世界を経験することが音楽にも生かせると考え、1985年に小林製薬に入社しました。 マーケティング部に所属し、当時はまだなかったのどの薬を新ジャンルとして開発したんですよ。 1987年には三菱化成工業(現・三菱ケミカル)に入社し、情報電子事業に携わりました。

そして1994年、先代である父の病気が発覚し、突然呼び戻される形で龍角散に入社。 まだ会社を継ぐかどうかは決めかねていて、最初の1年はとにかく営業先や工場へ行き、実際の現場を見て回りました。 それで分かったのは、もう想像を超えるほど業績が悪かった。 「桁が違うんじゃないか」というぐらいの負債があり、売上高は40億円だったものの借金も40億円だったんですよ。

いかに優れた製品であっても時を経れば陳腐化します。 「龍角散」は正に時代の変化から取り残された存在となっていたのです。 長年の歴史の中で「龍角散」というロングセラーの商品に頼りきり、新商品の開発を怠っていたことが業績不振の大きな要因だったのだと思います。 分社化や大手企業の傘下に入れてもらうことなど試行錯誤したそうですが、もう運転資金も底をついているという状態でした。 私は継ぐよりも、潰さずにいかに計画的にうまく終わらせるかを考えましたね。

森辺: 会社をたたむ方法は教科書にも載っていないので、それはそれで難しいでしょうね(笑)。

藤井: 少しずつ返済してからたたもうかと考えましたが、1年に1億円ずつ返しても40年かかります。 家内に「どうする?相続放棄という方法もあるが」と相談したところ、 家内は、「今まで会社があって、お取引先様や愛用者の皆様のお陰であなたは音楽の勉強ができた。 ご恩返ししなくていいんですか?」と。 それで、「じゃあ、やるか」と腹をくくったんです。

森辺: 何と、素晴らしい奥さまでしょうか! それで1995年に代表取締役社長に就任されたわけですね。

藤井: はい。しかし、いざ経営に携わってみると、想像以上に状況は悪かった。 借金が40億円もあるという事実は一部の幹部社員にしか知らされていなかったので、 役員や一般社員は全く危機感を持っていなかったのです。 当社のような一族経営の会社は、良くも悪くも「アットホーム」だと言われますが、裏を返せば「甘えている」ということです。 これを変えるのは大変ですよ。

森辺: 40億円の負債を抱えて、馴れ合い組織になっている。 そこを継いだばかりの社長が1人で変えるというのは、従業員から相当な抵抗があったでしょうね。

藤井: もう、組織を変えるというより、壊すしかありませんでした。 幸いにも一族経営の会社ですから、社長は最強の権限を持っています。 徹底的なトップダウンで、「どんどんやれ」と、無理やり一から作り直しました。 時間的、資金的に余裕があれば、ほかにもやり方はあったでしょうね。 実際、社員からは、「のどのカテゴリーは市場規模が小さいから、もっと大きな市場に行きましょう」、 「ブランドの知名度を生かして、胃薬や風邪薬を作ってはどうですか?」といった意見がありました。 もし、このような意見を取り入れていたら、今の当社はなかったでしょう。

私は「これをやったら負ける」と思ったので、全部切り捨てました。 だから、社内が大騒ぎになって、幹部社員が父のところに行き、「若がご乱心だから止めてください」と泣きついたそうです。 それを、父は怒って「出ていけ!」と追い返しました。 私が頼んだわけではなかったけれど、父の対応には助けられましたね。

森辺: 先代社長も、藤井社長の采配を信じて賭けたのでしょうね。 このオーナーシップやトップダウンというものは、日本ではあまり良く思われていない風潮がありますが、 裏を返したらリーダーシップじゃないですか。 今、グローバルでは、欧米でも、アジアでもオーナー企業が著しい成長をしています。 日本でももっと見直されるといいなと思っています。

藤井: 当社のような専門企業の経営者は音楽の世界でいうとオーケストラの指揮者のようなもので、その采配によって成功も失敗も左右されます。 現場でスピーディーに決断を下せるのは、一族経営ならではのメリットだったといえるでしょうね。 一見独裁者の様に見えるかも知れませんが、人生をかけて結果責任を負っているのです。

一族経営ならではのトップダウンで貫いた新商品開発と経営改革

森辺: それで、具体的にはどのような施策を打ったのですか?

藤井: 元々、危機感の薄い社員に説いてまわっても効果は知れています。 ですが、例えば指揮する代わりに自ら弦楽四重奏で聴衆を湧かせてみせると成功を認めざるを得ません。 このように小さな成功であっても、その成功を目の前で見せられれば、全員がその通りにやらざるを得なくなりますよね。 だから当時、私のワンマンの判断で社員に成功の手本を見せる必要がありました。 考えたのは、「売れないものは売れるようにしなければならない」、そして、「新たに売れるものを作らなければならない」ということ。

「売れないものは売れるように」というのは、取りも直さず「龍角散」のブランド力を上げることです。 まずは営業を強化していきました。 「龍角散」の愛用者のブランドイメージは確かにいいですよね。 歴史があって、実直に「のど」という専門性を守っている。 このようなブランドイメージは大切にするべきです。 ただ、古い商品をそのまま売っていては駄目だと。 「龍角散」の良さをよくよく確かめていくと、成分がのどの粘膜に直接作用し、血中には入らないという大きな特徴が見えてきました。 のどを元気にする反面、副作用の心配が少ないので、産婦人科の先生が妊婦さんに勧めてくれるほどだったのです。 これは非常にかけがえのない素晴らしいコンセプトなので、そこを強化するために、長年販売してきた『クララ』を終売させ、 「龍角散ダイレクト」として、飲みにくいというご意見もあった「龍角散」の微粉末を飲みやすくした商品を開発しました。

森辺: ブランドを守りつつ、進化させたわけですね。

藤井: そして、「新たに売れるものを作る」という点では、のどの専門メーカーである当社にしかできない新商品の開発をやるべきだと考えました。 介護施設を訪れた時にヒントを得て、1998年に世界初のゼリー状オブラート、「龍角散嚥下補助ゼリー」を開発。 「売れなかったら自分が全部買い取る」と、決死の覚悟で発売にこぎ着けましたが、これが当社の新商品開発の一番の成功例となりました。 2000年には、要望が多かった子ども用へ改良した「おくすり飲めたね」(発売当初を「おくすり飲もうね」)を発売。 特に要介護現場では仕方なく薬を砕いてお粥にかけたりしていますが、これは医薬品メーカーとしては耐えられない現状です。 しかも無理をすると誤嚥性肺炎を誘発する。

服薬補助ゼリーシリーズは現状だと年間で10億円ぐらいしか売れていませんが、 今や「これがないと困る」と言われ、結果的に当社の製品群の中では最も命を救える製品となったのです。

森辺: 東日本大震災をはじめ、災害時には水が貴重品です。 特に入院患者さんにとっては、規則正しく薬を飲むことが生死を分けるといっても過言ではありませんよね。 そんな時に、水がなくても楽に薬を飲めるというのは、ものすごく社会の役に立っている商品だと実感しますね。 これこそ、御社の創業以来のポリシーに通じるオンリーワンの商品ですね。

藤井: その流れで新たに開発したのが、龍角散のハーブパウダーを使用した「龍角散ののどすっきり飴・タブレット」です。 以前から当社がブランドライセンスとハーブパウダーを提供する形で龍角散ブランドがついたのど飴が他社から販売されていましたが、 ハーブパウダーがまぶしてあるものの、量が少ないため「のどすっきり」という実感があまり得られないものでした。 これを、自社製造・販売に切り替え、「龍角散」のブランドを付けて品質管理を徹底し、 メーカーとしての責任を果たそうと改良したものが『龍角散ののどすっきり飴・タブレット』です。 のど飴は当時年間売上が20億円ぐらいありましたが、それをやめて自社製造・販売に切り替えるというのは賭けでしたね。 それでも、医薬品メーカーとしての信頼性を失うよりははるかにマシだと考えました。

私に勝算があったのは、オンリーワンのポリシーです。 食品としてののど飴であっても龍角散のハーブパウダーをちゃんと練りこんである。 食品でセルフメディケーション、のどケアの一部が担えるというのは、どのメーカーもやっていませんでした。 この商品が、たった5、6年で一気に100億円製品となったのです。

森辺: すごいですね。 商品開発に加えて、社内の経営革新も同時に行っていったわけですね。

藤井: 同時といっても、経営革新のプロセスは順番が大事なので、厳密には同時ではありません。 営業強化とマーケティング、商品開発を徹底的に行い、売れる図式を作ってから、次に工場の近代化、効率化を行っていきました。 結果的に、社員数を増やさずに売上アップを達成できた。 そのお陰で40億円あった借金を完済し、現在、正社員80人で売上200億円以上という高収益体制を確立できたのです。 これ、逆だったら全く成立しませんよね。

森辺: 藤井社長は音楽家であり、10年間会社勤めしていたわけじゃないですか。 先代社長の経営を小さい頃から近くで見ていたとはいえ、入社するなり問題を可視化して、それを改善できたという秘訣は、どこにあったのでしょうか。

藤井: 小林製薬という競合メーカーにいた頃、龍角散を外から見て、この会社の弱さを知り尽くしたという経験が大きかったと思います。 のどの薬を新ジャンルとして開発した背景には、「龍角散の『クララ』をたたきつぶしてやろう」という思惑がありました。

森辺: なるほど。 自分の父親の会社への挑戦ですね。

藤井: この龍角散という会社は、当時からもう危ないという噂がありましたから。 龍角散を買収して、小林製薬の一部としよう、というプランを書いたくらいです(笑)。 しかし、この会社の弱いところはよく分かっていましたが、 愛用者にとってはものすごいロイヤリティーを持っているという強いところは、龍角散に入るまで分からなかった。

森辺: そうですよね。 高齢者でお守りのように「龍角散」を持っている人はたくさんいますね。

藤井: 強いところを強くすればいいのですよ。 もともと私が音楽家だったから、悪いところを見るよりもいいところを伸ばすという感覚を持っていたことが、 当社の立て直しに必要な要素と合致したのでしょうね。

インバウンド、越境EC、国内向け販売というプロセスで、一度は諦めた中国でも成功

森辺: 今や、「龍角散」はインバウンドでも押しも押されもせぬ地位を確立していますね。

藤井: もともと家庭薬は1945年から台湾、韓国、香港、アメリカなどへの輸出をスタートしていて、親和性が高いことは分かっていました。 実は20年ぐらい前に中国にも行ってみたのですが、全てのノウハウを中国に持って行って中国の製品にしなければ駄目だと言われたのでやめたという経緯があったのですよ。 それが、2010年に、中国人に対するビザの要件が緩和され、インバウンドという言葉が浸透するようになりました。 これは絶好のチャンスだと思って、今度はさまざまなプロモーションを売ったのです。

まず、正露丸を販売する大幸薬品さんをはじめとする親しい家庭薬企業に声をかけ、 現地の旅行代理店で配布されるインバウンド向けのフリーペーパーに共同で広告を出稿しました。 また、インバウンド対象店の店頭にディスプレイを置いて、中国語のPOPを作って並べたところ、見事に動線ができて、集中的に売れたのです。 政府からの要請によりTAX-Freeに協力したのも効果的でした。 その後、急激にまたどんどん数字が上がっていくので何が起きているのかと思ったら、まとめ買いして転売する人が現れたのです。 医薬品というのは対面販売が原則なので、これはメーカーとしては困った事態でした。 ただ、恐らく中国政府が必ず何か手を打ってくるだろうと考え、当時から越境ECの準備をしておいたのです。 すると案の定、今度は越境ECにだだっと流れ込んできました。

こうした経緯があり、2019年、中国OTC医薬品のトップメーカー、華潤三九とパートナーシップを締結することを発表し、 「龍角散ののどすっきり飴」や「龍角散ダイレクト」などを中国市場へ展開する運びになりました。 国内の生産設備の近代化、自動化を進め、すでに年間約6千万個の「龍角散ダイレクトスティック」を生産できる体制を整えています。

森辺: まさに作られた戦略なのですね。 藤井社長はものすごい戦略家なのだと感じました。

藤井: そんなことはありませんよ(笑)。 ただ、間違ってはならないのは、日本でいい商品だからといって、ほかの全ての国でも受け入れられるかといったら、そんなことはあり得ません。 台湾では料理の油煙や冷房によるのどのトラブルにいい、韓国では黄砂対策にいい、香港や中国では大気汚染対策にいいと、 「龍角散」の受け入れられ方にもその国なりの背景があります。 異文化に融合できるかどうかというとこが大事で、それは押し付けてはならない。 また、このインバウンドの一件でもプロセスが大切だということを実感しました。

森辺: 20年前に中国に出なくて正解で、インバウンドから越境EC、パートナーシップによる中国国内向け販売というプロセスが重要だったということですね。 最後に、今後の展望をお聞かせください。

藤井: 数十年後は、セルフメディケーションがますます見直される世の中になっていくと思います。 そうなると、当社はまだまだ社会貢献できる余地があるでしょう。 「のどから体調を崩すことが多いから、早めにケアしておいてくださいね」というのが当社にとっての正しい道です。 だから、もっと儲かる道はあるかもしれないけれど、そういう道は選ばない。 そのポリシーが崩れたら、当社は存在する意義がないと考えています。

ゲスト

株式会社龍角散 代表取締役社長 藤井隆太氏

藤井 隆太 (ふじい りゅうた)

株式会社龍角散 代表取締役社長

Ryuta Fujii, RYUKAKUSAN

インタビュアー

森辺 一樹

森辺 一樹(もりべ かずき)

スパイダー・イニシアティブ株式会社 代表取締役社長兼CEO
法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科 特任講師

Kazuki Moribe, SPYDER INITIATIVE

1974年生まれ。幼少期をシンガポールで過ごす。アメリカン・スクール卒。帰国後、法政大学経営学部を卒業し、大手医療機器メーカーに入社。2002年、中国・香港にて、新興国に特化した市場調査会社を創業し代表取締役社長に就任。2013年、市場調査会社を売却し、日本企業の海外販路構築を支援するスパイダー・イニシアティブ株式会社を設立。専門はグローバル・マーケティング。海外販路構築を強みとし、市場参入戦略やチャネル構築の支援を得意とする。大手を中心に17年で1,000社以上の新興国展開の支援実績を持つ。著書に、『「アジアで儲かる会社」に変わる30の方法』中経出版[KADOKAWA])、『わかりやすい現地に寄り添うアジアビジネスの教科書』白桃書房)などがある。