東忠男(以下、東):こんにちは、ナビゲーターの東忠男です。
森辺一樹(以下、森辺):こんにちは、森辺一樹です。
東:森辺さん、ここは今どこに。
森辺:香港におります。
東:今日は香港からお送りしたいと思うんですけど、香港といえば、森辺さんが起業したのが10何年前ですかね。
森辺:一番最初の会社が2002年なんで、13年前。香港で会社を一番最初に作ったんで、13年前ですね。
東:大学を卒業してそのまま起業したんですか。それとも…。
森辺:大学を卒業して就職をしました。オリンパスという会社に一回就職をしてるんですよね。3年で辞めてっていうふうに決めてたんで3年で辞めて、当時中国大陸がすごくこれから伸びると言われてた時代で、じゃあ中国でビジネスをするのが最も成功確率が高いだろうということで中国に行ったんですけど、そうは言っても今みたいな中国とはちょっと13年前は違って、もっと中国色が強いっていうか、共産国色が非常に強い国だったんですよね。
東:当時香港から中国に行くのにもちょっと様子が違ったと思うんですけど、当時の中国ってどんな感じか、リスナーの皆さんね、2002年だと中国行ったことがなかった人とかもけっこう多いと思うんですけどね。
森辺:僕が一番最初に中国に上陸したのは、起業をするっていうんで準備で行ったんだけど、1990年代後半なんですよね。その当時は中国っていっても色々なんだけど、上海はまずテレビ塔しかなかったよね。まだビザもいる。外国人が泊まっていいホテルっていうのがあって、外国人は外国人用のホテルに泊まる。値段も違うんだよね。外国人用の値段、現地人用の値段っていうのがあって、かなりややこしかった記憶があります。今みたいに中国って華やかじゃないですか。けどそうじゃなくて、人の服の色が黒かグレーか緑の人民服みたいな。空はずっと曇ってるんですよ。で、人々に笑顔がないっていう印象がすごい強くて、そんなイメージが僕の中国だったんですよね。ただその中に、何年かに一回来るとどんどん人々が色づいてくというか、中国が色づいていっているのを感じたんですよね。それで中国でやろうと思って、人々の顔に笑顔がちょっとずつ出て来てて、やってやるぞ感がすごく強くて、そんな印象があったかな。
東:候補としては、香港含めて、華南、華東、まあ華北はないと思うんですけど、っていうところがあったと思うんですけど、どうして香港とか深センに。
森辺:そうですね、深センだったんだけどね。当時は今みたいな上海はなかったんだよね。北京は北朝鮮みたいな雰囲気がものすごくあって、上海は今みたいな近代的な都市じゃなかったんですよね。一方で深センは香港と国境沿いの町だから、いろんな外資施策とか経済の施策が一番最初に深センで行われて、そこで実験的に行われたものが全土に広まっていくっていう、そういう実験都市だったんですね。それで深センで会社を興そうと。なんだけど、深センで会社を立てるのに資本金が1500万くらい必要だったんですよね、当時のレートで。で香港で会社を作った理由もそれもあるんだけど、日本でも当時資本金1000万からじゃないと株式会社作れなかったんですよね。1000万なんて現金、3年働いただけで持ってないじゃないですか。僕が当時持っていたのは100万円。100万円握り締めてこっちに来たんだけど、物理的に会社を作れるのが香港では2ドルから作れたんですよ、香港ドルで。2ドルだから数百円。それで、華南というか深セン、香港。でいつの間にか上海の方が大きくなっていったっていう、そんな経緯があって。
あともうひとつの理由は、中国って駐在した方は分かると思うんだけど、しばらくいると中国から脱出したいという思いに駆られることがよくある。でその時に香港に週末脱出できることが、すごく当時は重要なことだったんだよね。深センの中国でスーツ着てると芸能人かっていうくらいジロジロ見られる。その生活のストレスを香港に来て一瞬開放するというか解消するというか、そういうことも出来たんで非常に良かったっていうのと。
あと中国に対する怖さっていうのが当時はまだあって、中国大陸でお金を稼いでいって事業をして何かあった時に、全部根こそぎいかれるっていう怖さがあったんだよね。今はないけど。だからやっぱり香港にそういう時はいったん下がれる。香港はまだ返還前だったし、返還されてからも国際社会の目がしっかり行き届く地域だしね。香港人と中国人は違うし。まあだから香港っていうのもあったんですけどね。
東:一方で香港はどうですか。12、3年前と比べて。
森辺:変わったよね。何が変わったかって、香港人がプートンファが上手くなった。プートンファっていうのは中国のマンダリン、北京語。北京語が上手くなって、基本的に香港は広東語じゃないですか。広東省は広東語と北京語をしゃべるでしょ。香港人はプートンファが下手で、何なら俺の方が上手いじゃないかっていうくらいプートンファが下手だったんですよ。で、英語も通じないと。一部の金融機関に勤めているようなホワイトカラーの人たちは英語しゃべりますけど、基本的にタクシーの運転手は今でも英語はしゃべらない。じゃあタクシーの運転手がプートンファなんか絶対に分からなかった。それがまずプートンファが出来るようになったと。この13年見てると、香港政府がプートンファをしゃべれるようになりましょうっていう教育をさんざんやってきてるし、中国人が今年間4、5000万人くらいこっちに来てるでしょ。やっぱり香港の経済も中国人がこっちに来ることによるインバウンドの経済効果が非常に大きいからね。それでプートンファをしゃべれるようになったっていうのがひとつの大きな違いかなと思うんだよね。
東:レストランとかでご飯食べてても普通に話も通じるんですよね。
森辺:通じるもんね。僕らも広東語はしゃべれないけどプートンファしゃべって通じるから便利だよね。昔はそんなことなかったし。あと香港人が、自分たちは香港人だ、中国人じゃないっていう絶対的なあれがあったんですよ、昔は。今もあるけど、今以上にね。それがね、この間も学生のデモがあったでしょ、香港人なんだけど中国の一員っていう意識が13年前に比べて高くなってるんじゃないかと思うんだよね。昔は絶対違う、香港人と大陸中国人は絶対違うっていう、そういうのが強くあったんだけど、今はかなりそれが慣らされてきたっていうのがひとつだよね。あとは香港ドルが当時は中国人民元より価値が全然高かったんですよね。いろんな経済アナリストが香港ドルを人民元が超えることはないと、人民元の引き上げはないって言ったの。なんだけど結局今じゃ人民元の方が力がある通貨になっているし、だからそこはだいぶ変わったんじゃないかな。
東:今日は香港と深センの様子がどう変わったかみたいなとこだったんですが、次回から森辺さんがどう起業してどうなっていったかみたいなところをお聞きしていきたいと思いますので、よろしくお願いします。森辺さんありがとうございました。
森辺:ありがとうございました。