東忠男(以下、東):こんにちは、ナビゲーターの東忠男です。
森辺一樹(以下、森辺):こんにちは、森辺一樹です。
東:前回は香港と深センの違いについて語っていただいたんですけど、そもそも森辺さんが香港で起業するというところから始まっていると思うんですけど、2002年当時を振り返ってもらったんですが、起業するっていってもいろんなカテゴリで起業するという選択があったと思うんですけど、具体的に森辺さんは香港に来たときにどんなことをやろうと思って香港に来て、どんなことを実際にやってたのかをお聞きしたいんですけど。
森辺:眠いね(笑) 今日本時間で1時40分、香港時間0時40分。頑張るよ(笑)
香港になんで来たかって、前回の続きだよね。ちょっと頭の回転が悪くなってるけどね、当時僕は大学の時に起業するって決めて、もっと遡ると高校のハイスクールの時にアメリカの学校行ったでしょ。その時に決めていたんだけど、それは長いんで割愛をして、僕はこう考えたんですよ。世界で変わらないものはふたつあると。それは土地の面積とお金の絶対額。これは絶対変わらなくて、世界は今まで土地を取り合うか、まあ宗教の違いの戦争をずっとしてきてるわけじゃないですか、だから土地っていうものとお金の絶対額っていうものは変わらない、非常に重要な要素であると。お金をレバレッジをかけたりとかすれば別だけど、基本的には変わらないじゃない。
そうなった時に、世界地図を広げたんですよ、自分の目の前に。で大陸間の中でお金が行き来し合うわけじゃん。今はこれだけ近代化して文明化したら、土地を取り合って戦争するなんてのはかなりレアなケースだよね、一部の地域ではやってるけど。そうすると今はどうなったかっていったら、経済で戦ってるわけだよね。国と国同士が貿易黒字、貿易赤字っていう表現使うけど、基本的にはお金を移動させて、どこの大陸にお金が一番あるかっていうことで戦ってると。だとするとお金が一番集まってる大陸で勝負をするのが一番成功確率が高いんじゃないかと僕は考えたわけなんですよ。それで当時学生ながらにいろんな情報集めてたら、中国にこれからお金がいっぱい集まると。じゃあ中国でやるしかないだろうってことで、国境越えることにあんまりあれはなかったんで、なので越えてこっちに来ましたよ、というのがそもそもなんですよね。
来たら来たで、英語はできるけど中国語はできないなっていうことに気付いて、中国人は英語全くしゃべらないなという中で、自分たちに何ができるだろうというところから始まっているんですよ。ノープランで来たんですよね。単純に今言った理屈しか僕にはなくて、何の事業モデルもなかったんですよ。その事業モデルを生み出そうと思って会社に勤めながらずっと考えてたんだけど、会社だって勤めてる時は必死にやってるわけでね、日々の仕事の中で新しい発想なんて生まれないんですよ。一回辞めて向こうに行かないと何も生まれないと思って、辞めて行ったんだよね。行って、語学ができないんで、とにかく日系企業があるっていうことは分かって、日系企業に片っ端から行きまくったんだよね。飛び込み営業みたいな。そうそうたる大企業が来てて。日本で三井物産や三菱商事や、こっちだったら深センとあとマブチモーターとか当時いっぱいあったんだけど、オリンパスもあったし三洋とかもいっぱいあったんだけどね、そういうところに飛び込みで行ったって、まず受付をクリアできないでしょ。なんだけど、現地法人は簡単に受付をクリアできて、中に入れるんですよ。何なら現地法人のトップに会える。日本人というだけで。それで何か仕事ないですか、何だお前、いくつだ、26です、面白いなお前はっていう話になって、しょうもない仕事いっぱいもらったんですよ。しょうもないって言ったら失礼だけど、検品するとかね、中国人にトイレの仕方教えるとかね。いっぱい垂らすんですよ、トイレの下にね。だから一歩前へ、みたいな。痰を床に吐かないとか、まあ当時はいっぱい吐いてたんですよ。そういういろんな仕事をもらって、10万円20万円の仕事をやってた時期があって、そんなことをやってた。
そうこうしているうちに、半年くらいで分かったことがあって。日本の大企業の駐在員って中国マーケットを全く見てないんだなっていうことが分かったんですよ。生産拠点だったんで、日本の言われるが指示のままこっちでいいものを安く作る。それを日本に輸出してるっていうだけだったんです。でも一方で中国マーケットはどんどん大きくなっていってて、そこに売るっていうことは全くしてなくて、それには債権回収のリスクがあるっていうことを当時すごく言ってて。あと駐在員が基本的には生産目的で来てる人たちなのでマーケティングとかマーケットっていう発想が全くないんですよ。基本的には日本人の社会で、中国でも生きてるわけですよね。朝NHKの国際放送見て、運転手付きの車で会社行って、日本人同士で仕事をして、日本人同士で日本食屋でランチ食べて、会社終わったら日本人だけで日本人カラオケ行って、家帰って、またNHKの国際放送見て、日経新聞読んで寝るみたいな。基本的には中国マーケットのこと何も分かってなかった。これチャンスだなと思ったんですよね。中国マーケットのことを誰よりも調べて、その情報を提供すると。その情報をベースに現地法人が中国の内販を攻めれたら、これはひとつのビジネスになると思って、調査会社にしたんだよね。何でも屋だったんだけど、カテゴリを調査に絞ったんですよ。そしたら儲からない儲からない。それが3年くらい続いたわけですよ。なんで儲からないのか。当時現地法人の社長っていうのは権限が移譲されてないんで、予算を持ってなかったんですよ。僕たちに検品しろって言ってくれる2、30万くらいの予算は持ってたんですけど、基本的には本社が握ってて、全く現法にそういう裁量はなかったんですよね。だからいくらそれを説いてもまた彼らの仕事と違うし、彼らにはそんな予算権限ない。東京の本社がそれを握ってた。ですから3年くらい本当に飯が食えなくて、血眼になって働いたんだけど、本当に貧乏暇なしっていう状態が続いたのが3年くらいあったのかな。2002年に立ち上げて4年、5年くらいは苦しかったですね。
その後に東京に本社を移転したんですよ。香港に会社を作って、深センに会社を作って、けど現地に予算がないと。だから東京に本社を移転させて、ベンチャーキャピタルから3億円の資金調達をしたんです、僕らの事業プランで。そしたらそこから、いろんな苦労はあったものの、ドーンと伸びた。なんで伸びたかって言ったら本社がそれを当時考えてたから。2000年代後半くらいに、やっぱり内販絶対やらなきゃ駄目だと。それに対して、いろんな調査が必要な時代だったんで、そこからものすごく儲かってった。そんな流れですかね。
東:苦しかった時期っていうのはどんな感じだったんですか。
森辺:自炊をしてて。僕は料理が全くできない、お湯しか沸かせないので、掃除と食器洗いが担当だったんだけど、できるやつが作ると。まず自炊だよね。それから日本人なんで日本食食いたいわけですよ。毎日中国の中華食ってたら吐きそうになるのね。なんだけど日本食が食えなかった。だからローカルの現地の飯みたいな。それが一番辛かったですよね。
あとね、辛い話していい? 26、7で起業してるじゃない。みんな結婚し始めるのよ。その時に自分は100万円握り締めて中国に来て、起業したんだけど食えない。日本でみんな結婚するから一樹来てよって招待状が来るわけじゃないですか。けど日本に帰るお金がないわけですよ。チケット10万円するでしょ。ご祝儀に3万円くらい包むじゃないですか。その包むお金もないわけですよ。それで自分がそんな貧乏してるって見せたくない。イキってますからね。中国行って起業してやってるんだよ、俺はって。それが本当に辛かったですね。僕は友達の結婚式に出れなかった。もしかしたら冷たいやつだなって思われてるかもしれないし、けどぶっちゃけお金がなかったっていう。その時にお金がないっていうことの辛さ、飯が食えないし、友達の結婚式に3万円包めないんだよ。日本人でね。それがすごい辛かった思い出があるかな。
東:なるほど。そして本社を東京に移して、そこからいったということですね。今日はお時間なので、次回東京に本社を移転して具体的にどうなっていったかをお聞きしたいと思います。森辺さん、ありがとうございました。
森辺:ありがとうございました。