東:こんにちは。ナビゲーターの東忠男です。
森辺:こんにちは。森辺一樹です。
東:森辺さん、今日はすてきなゲストをお迎えしたんですけども、プロフィールどうのこうのより聞いていただいたほうがいいと思うので、ご紹介をいただきたいんですけども。
森辺:そうですね。今日のゲストですが、元インテルの社長の傳田さんにお越しいただいております。傳田さん、どうぞよろしくお願いします。
傳田:よろしくお願いします。
東:よろしくお願いします。元インテルの米国本社の副社長でもあられて、今、傳田アソシエイツの株式会社の社長でいらっしゃると。で、傳田さんの、今日は、20代から30代、40代っていうところをお聞きしたいと思うんですけど、お願いしていいですかね、森辺さん。
森辺:そうですね。傳田さんと、私も何回かお話をさせていただいて、その中でインテルという会社がまだ小さかったときにインテルに入社されて、傳田さんが経験してきた20代、30代、40代っていうのは今の日本企業が今後のアジアで戦っていくうえで学ぶものがすごくたくさんあるなっていうのは私自身感じていて、今回のリスナーの皆さんにそんなところを感じ取っていただければなというふうに思っております。傳田さん、どうぞよろしくお願いします。
傳田:はい、わかりました。私がインテルに入った段階は、まだインテルが創業まもなくで、全世界で100人もいないという、本当のベンチャー。要は誰も知らないと。で、そこに縁があってインテルに入ったんですが、私の20代っていうのは、アメリカのインテル、それから日本の会社との間で大きく驚きと、それから怒りと、失望があったですね、その20代ですね。ですから大きな船で、大波で翻弄されたっていうような20代で、多分僕から見たら人の倍以上、最低一日18時間以上は働いた経験ありますね。アメリカのインテルのビジネスのやり方、またアメリカの文化、それから日本の会社の考え方、仕事のやり方、これが本当に違うんですね。だからその中で、アメリカの言っていることは日本の会社につながらない。日本の言っていることはアメリカに理解できない。この中でどうやって自分自身の立場を置くか。この立ち位置というのが非常に難しいんですね。ですからそれを一番20代っていうのは、自分の立ち位置を決めるのに時間がかかってだいぶ苦労しました。もちろんアメリカの会社ですから、英語とかそういうコミュニケーション、これも本来は僕は一番最初は英語もほとんどできませんでしたけど、毎日、あの頃はアメリカ軍のラジオ放送、810kHzの。あのテープレコーダーとか、それを毎日聞いて、さらにマイクロプロセッサという、当時日本ではまだ真空管とかトランジスタの時代ですから、誰も半導体っての知らない。しかもマイクロプロセッサ、これはだから僕は本当に自分で勉強しました。だから勉強しながら、ビジネスを勉強しながら、ありとあらゆることをやっていた中ですから、本当に遊んどる暇がない。土曜日も仕事。そういう意味で、20代は大変だったんですが、そのぶん30代に入って、徐々に自分自身のこれでいけるっていう方向が出てきたんです。30代は基本的には20代の結果をお客さんからいろいろ評価されましてね。要は、「傳田はどんな問題があっても逃げない」と。この逃げないっていうベースが自分がいかにお客さんから必要とされているかってのがわかるわけですね。だからそのビジネスの仕方も、要は、日本のお客さんから教えてもらったと。僕自身はビジネスの経験がゼロでインテル入っていますから、先輩がいないわけですね。だから当時の社長もビジネスに関しては100%僕に任せてくれたんです。だからお客さんとの関係、ですから私がお客さんと、仕事上でおつき合いする人たちは全部30代、40代、50代、たまには60代。そういう人たち。で、そういう人と本当にビジネスの中で交渉したりいろいろやりましたけど、そこから、なるほど、こういうことが必要なのか、と。これはやってはいかん、等、ありましたけど、僕はかなり自分の方針どおり強気でやりましたから、お客さんから、「おまえは生意気だ」と。「この業界からいれないようにしてあげる」とか脅しとかいっぱいありました。だけど僕はそれには全然屈しませんで、要は、当時から日本は、購入してくれるお客さんは神様だと。だけど僕は全く知らないでやっていますから、そんなことはないと。売る側も買う側も同じだと、いう感覚でもってましたから、私は言うことは言うと。というベースできまして。
森辺:それすごい重要ですね、グローバルでビジネスするうえで。そこの受け止め方って全然違いますもんね。
傳田:そうですね。だから今でもやっぱり僕はどんな問題点があろうが、問題があろうが、解決するすべ、問題を処理する能力は、僕は当時から一番だと。これが自分の価値を決める一つの物差しでもあるわけ。ですから僕は30代ですね、どんどんと仕事が楽しい。それから会社がどんどん大きくなったわけで、組織をつくる。それから新卒を取り始める。そして自分がリーダーとして働いているという自覚を持って、それが30代ですね。ですから自分の立ち位置、それからバリューそのものを確立した時代です。で、40代はですね、それを元に、今度は自分が世界で残す実績をつくりたいということで、いろんな仕掛けをしまして、ちょうどパソコンがもっと新しい時代に入ってくる時代ですから、私自身は日本の企業と、例えばノートブックっていうのは、今までずっとデスクトップが主流の中で、ノートブックのアイデアは東芝です。で、東芝の当時、溝口哲也さんという方がおりまして、その人が事業部長でノートブックを最初に考える。で、私がその用のマイクロプロセッサを標準品として違うやつを特別に、そのノートブック用にインテルに頼んで製品をスクリーニングしてもらって出した。で、その結果ノートブックは、我々、僕自身が、将来はデスクトップよりもノートブックだと、いうことを常にインテルに、そのためには低消費電力のマイクロプロセッサも要るよっていうメッセージをずっと出すわけですね。で、それを理解するためにはかなり時間かかりました。それからもう一つは、最後は、PCというのはもともと企業向けの、生産性を上げるっていうツールだったんですが、これだけではやっぱりマーケットは大きくならない。やっぱりどうしても個人を狙った。で、ノートブックが出た。それで1995年にソニーの出井(いでい)さんが社長として就任しましたんで、私はその出井社長がまだパソコンの事業部長の頃から知ってましたんで、社長になりまして、お祝いを兼ねてすぐ会いに行きました。で、家電のオーディオとビデオとパソコンの技術を融合した、ソニーブランドのパソコンをやりませんかということを彼にお願いしたんですね。
森辺:それがVAIO(バイオ)なわけですね。
傳田:そうなんですよ。だからそれが世界中で標準になるし。だから今のノートブックと、バイオベースの家電とパソコンの技術を融合したPCと、これはだから僕が90年代、40代で仕掛けた大きなものですね。
森辺:なるほど。
傳田:で、あともう一個はあとからまた別なかたちでやりますから、Intel inside(インテルインサイド)のもともとのアイデアは日本発ですと。
森辺:僕もそれ聞いてびっくりしたんですけどね。
傳田:これも、われわれ自由に発想して、要は問題点がいっぱいある中で、どうやって解決するかっていうことが、少なくとも経営者に与えられたテーマですよね。それを逃げたらだめだし。だからどうやって考えるかっていうことに対して、とことん考える。で一番最初の話は、新卒の学生をリクルートして面接して取ろうと、採用するとですね、みんな家に帰ってお父さんお母さんが、「インテル?知らない」ね。それから「アメリカの会社でしょ。そんな会社だめだ」というところで、やっぱり優秀な学生をどうしても取れないというジレンマを僕は問題を抱えてたんです。そこからがスタートです。だけどこれはまた別な、あとでやりましょう。
森辺:はい、そうですね。BtoBの企業さん、リスナーさんは必見ですね。
東:さっきのバイオの話なんかすごい興味深いと思うんですけど、製品化まですごい苦労があったところですけど。
傳田:製品化は、これは今回初めて話しますが、基本的には社内ですね、ソニーがソニーブランドのパソコンやるっていうこの決定を、要は、私と出井社長で決めて、それをアメリカのアンディ・グローブですね、社長に報告しましたら、すごい驚きですよね。で、すぐ両社でプロジェクトが立ち上がったんです。で、ほとんどの開発と製造は全部インテルが担当したんです。だからそっからですね、日本発のプログラムとしてすごいエネルギーとわいわい感ね、両社で。めっちゃくちゃ面白かったですね。
森辺:へえ、いやまさかね、バイオの開発がそんなところから始まっていたなんてのは全然知らなかったんで、すごいですね。傳田さん、1971年に日本インテルに入っているんですよね。僕たちが生まれてないときに、
東:そうですよね(笑)。
傳田:(笑)そうでしょ?だからこういう話は非常に新鮮で面白いでしょ?
東:そうですよね。
森辺:その時代にアメリカのベンチャー企業に入るっていうね、そもそもベンチャーっていう定義が恐らく71年の日本にはなかったはずなんですよ。ベンチャー企業ってのは90年代に言われているはずなんで、その20年も前に入っていると。で、さっき、お話の中で面白かったのが、いわゆるアメリカの米国本社と日本の本社の板挟みと。そのブリッジをやんないといけないと。それでこのリスナーも日本と中国だとか、アジアに駐在しているような方々がこれ聞いているんですけど、そのリスナーの駐在をされている彼らにとっても日本と中国のブリッジになって、そのはざまで苦しんでるみたいなところがあって、その当時のアメリカと日本は何が具体的にこんなに大きく違って、傳田さんが何に苦労をされたのか、こんなお話をちょっとお聞かせいただけるとありがたいんですが。
傳田:もう、いっぱいありますね。例えば僕が、本当に入ってね、インテルという会社はマイクロプロセッサというベースで、最終的には1985年にメモリをやめてこの特化した会社になろうと思ったんですが、その以前の、私がまだ20代のときは、日本の企業からインテルにお金を出して、開発料出して、開発を頼まれたんですね。そういう当時の、70年代の日本の企業っていうのは、まだベンチャー企業で新しい会社がいいと思ったら開発を投資をして頼むという、そういう気概があるんです。ですから私が20代でインテルがやっぱり一番最初に日本にオフィスつくったっていうのは、やっぱり最初のお客さんが日本なんです。それである専用の製品をインテルに開発を頼んだんですが、それを専用じゃなくて汎用製品としてソフトウェアを変えれば、プログラムを変えればほかにも使えるっていう、そういうアイデアを出したのもインテルの社員で、そこからですね、やっぱり、インテル自身がマイクロプロセッサにずうっとシフトしていくんですが、その過程で私は日本の会社の貢献度っていうのが、インテルに対してめちゃくちゃあるんです。その一つは、次の8ビットも日本の企業が実は開発費を出しているんです。だから要は、IBMが1981年にIBM PCというパソコンが出るまでは、インテルの中の売り上げの比率は日本は半分以上です。
森辺:そんなにあるんですか。
傳田:ええ。だからすべて新しいものは大体日本から来ています。私自身は最初の4004(よんまるまるよん)というプロセッサを見て、これは、感覚的にですよ、ほかにも売れるんじゃないかということで、僕は当時の上司に片言の英語と、通訳を頼みながら、秘書に、「これはほかに売るすべはないのか」と。だけどこれは「エクスクルーシブで契約しているからほかに売れない」と。そのときに、それじゃこのエクスクルーシブを取るためにどうするかってことを考えまして、その交渉に、私もアメリカのトップの人間と一緒に行きまして、立ち合ったんですよ。それでわれわれの基本的な考えは、当時、値上げをしてほしいと。当然向こうは値上げは認めないよと。じゃあそれを、電卓以外の製品だったら使ってもいいっていう、そういう許可を取ったんです。
森辺:なるほど。うまいですね。
傳田:ええ。だからそこに僕はちゃんといまして。それからInt.の4004というCPUは世の中に出てきたわけ。その一番最初にコンタクトして使いたいっていう会社が当時の東芝の子会社の東京電気っていう会社です。その当時の時代背景みますと、キャッシュレジスター、いわゆる小売店とか、そこであるキャッシュレジスターってのは全部メカニカルなんです。多分皆さん知らないでしょうけど、そうすると、ガッチャンガッチャンとやってですね、腱鞘炎っていう問題が起こっていたんです。その当時の社会問題として。それをその東京電気っていう会社がInt.の4004というCPUを使って電子式の軽いタッチのキャッシュレジスターをつくったんです。開発したんです。だから私は一番最初にそこに行って商品を紹介して、使うというところまで、かなりやりましたよ。それから開発の段階から全部私もお手伝いして、ほとんど東京と三島を往復して。それの一番最初の製品ができて、発注もらったのが1972年で、それは当時、一番最初の製品が西ドイツのガソリンスタンド向けのキャッシュレジスターなんです。日本向けじゃないんです。実は私の書斎の目の前に世界で最初のキャッシュレジスターの回路図が額に入ってあるんですよ。
東:じゃあ今の東芝テックさんですよね。
傳田:そうですよ。現在の東芝テックです。だからそういう日本の会社がいかにインテルに貢献して、その中に中心として私がいたわけですね。
森辺:インテルっていうのは日本と非常に密接な会社なんですね。外資系なんですけど。
傳田:そうです。当時からね。だからインテルの創業者のDr.ノイスと(ロバート・ノイス)いう、今はもう、世界中で半導体の神様と言われる人ですね、その人は当時社長ですから、しょっちゅう日本に来ました。僕はその人のカバン持ちでいたわけですよ。もう、天才っていうかね、ある意味で凄み、頭のキレ、それから口で笑っていても目が笑ってない、すべてを見透かされるようなすごい人でした。やっぱりインテルっていう会社は、僕はそういういろんな幹部をですね、会って、何かやっぱり違うっていう、僕自身の人生の考え方ってのは、インテル幹部をとおしてかなり影響受けています。だから日本の会社もインテルに対する貢献と同時にインテルからかなりの影響受けていると思いますね。で、僕が一番の、さっきの質問の中で吐露したのは、日本のトップの方たちが何人かで、数人でインテルの本社へ来まして、アメリカの幹部たちと会いますよね。そうすると、まず日本の幹部のトップの人たちは最初に季節の話、ゴルフの話、それから何かのトピックの話をして、要は本音というか、本当のアジェンダを言わないんですよね。
森辺:いやあはいはい、わかります、もう、わかります。それね、私、お客さんを連れてアジアの企業に会いに行くわけですよ。アジアの企業つったって、今、時価総額なんつったらまあ、めちゃめちゃ大きくて、そのときにいっつも言われるんだ、「あの人たちは何しに来たんや」と。本題に入らないと。僕たちはビジネスのためのビジネスミーティング、セッティングしているのに余計な話はいいと。日本企業ってのは、行ったら情報聞きたいのか、余計な話ばっかしてね、全然ビジネスの本題に入れないっつってね。僕、どっちの気持ちもわかるんでね、まあまあまあっていう、まさにそういうことですよね。
傳田:いやだからそれをね、僕は20代、30代でも何回も受けているわけ。それで、僕は終わってから、だから一番末席に座った人が「今回の訪問目的はこれこれこういうことなので、よろしくお願いします」って言ってそれでおしまいなんですよ。それで僕はお客さんが帰ってから、「傳田さん、このミーティングは何だ、時間の無駄だ」と、えらい怒られましてね。
森辺:だからミーティングの定義が日本と世界とってすごい違っていて、
傳田:全然違うんですよ。
森辺:ビジネスミーティングって、季節の話とか何とかっちゅうのはミーティングの部屋に入る前に、"Hello,How are you?"のときにやっときゃいい話で、部屋に入ってドア閉めたらすぐビジネスの話をしないと時間がもったいないっていう、そういう話ですよね。
傳田:だからアンディ・グローブが90年代の、僕が日本に来て、お客さんに行くと、お客さんのイントロダクションがどんどん長くて、彼は10分間黙っていることができないんですよ、すぐ本題にいかないと。それで横に僕がいますから、すぐメモがきまして、"Wasting time"って言うんですよ。無駄だって言うんですよ(笑)。それで僕は彼に"Be patient"って言いますと、それがインテルの本社で、「おい、傳田さんがアンディに対して我慢しろと言ったぞ」っていってね、すごい有名になりましてね。だから本当にビジネスのやり方、本題にすぐ入らない。インテルの幹部はもう、即、ですから。そんな季節の話なんて要らないと。
森辺:日本企業はスピードが遅いっていうのもそうなんですけど、まさにそれでね、本題に入らないんですよね。あれはなんか私すごくわかって、日本のいいところでもあるんですけど、やっぱり世界だとそこがすごく邪魔になって、一時期の強い時代の日本はそれでもよかったのかもしれないですけど、今は全く。
傳田:ないですね。
森辺:うーん。何しに来たのって本当に言いますからね。
傳田:それで、僕は考えましてね、じゃあ僕自身は何をやったかって言いますと、まずアメリカのインテルに行きたいという会社の、まず何を、アジェンダ何ですか、誰が行きますか、誰が何をしますか、マテリアルも全部見せてくださいと、そういうことを僕は若いころ、もう言いましてね、日本のお客さんからもうめちゃくちゃ怒られましてね。なんでおまえが来るんだと、なんでチェックするんだと。いや、そうじゃないと、申し訳ないけどアメリカのインテル幹部とのミーティングはセットできませんと。ということを僕は無理やりやりました。お客さんから反感、食いましたけどね。だけどそれをやらないと建設的なミーティングができない、というのが僕の肌の感じですね。
森辺:ミーティングアジェンダが向こうはしっかりありますから。日本ってミーティングアジェンダなしでだらだらだらだら遅くまでミーティングやっているの多いですからね。なるほど、それは面白いですね。
傳田:あともう一つ、僕はアメリカの幹部に対して、日本のお客さんと、まだ20代ですよ、アメリカの幹部に対して、日本のお客さんに対して言葉遣い、"commitment"、"consider"、それから"think"という、こういう言葉の使い方を注意するようにと。ということで結局は、日本のお客さんはアメリカの幹部が来ると、今問題点がとにかく何とか解決して値段は下げてほしい、どうだこうだ言っていますよね。そうすると、幹部が「考えます」と。「コンシダーします」、または「考えときます」、「検討します」って話するんですけど、帰ってまず日本人の人たちは、あのときにあの幹部がやるって約束したじゃないかと、必ずそう言うんですよ。ところが幹部は、そんなことは言ってないと。コミットはしてないと。検討すると言っていると。だからこの言葉のギャップを僕は嫌ほど、それはもう、しましたんで。だから幹部に対して日本でのビジネスのやり方、言葉の使い方をまず教育もしました。
森辺:なるほど。じゃあ大変な20代を過ごされたんですね。
傳田:もう一つ、日本のお客さんが、結局彼らがいろんなプレゼンテーションしますね。そうすると皆さん、イエス、まあ頭を縦に振るわけですよ。そうして、大体みんなイエス、イエスって言うと思ったんです。ところが日本に帰って、ノーっていう手紙が来るわけですね、そのプレゼンに対して。そうすると今度はアメリカ人が僕に「傳田さん、あのときにみんなイエス、イエスって言って頭振っていたじゃないか」と言うから、それも誤解のもとなんですよ。それでなんでノーという手紙が来るんだと。だからそれは僕は僕なりに、「彼らがイエス、イエスって言うのは"I hear you"だと。聞きましたって話で、あれは理解した"understood"と違うよ」とかね。この辺を僕は真ん中で本当に苦労してましたよ。
森辺:へえ。面白いですね。じゃあ傳田さん、第1回目、時間がそろそろ終わりでございますので、また続きを次回お話しいただくようにして、今回はこれで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
傳田:ありがとうございました。
東:ありがとうございました。