東:こんにちは。ナビゲーターの東忠男です。
森辺:こんにちは。森辺一樹です。
東:それでは森辺さん、今日はすてきなゲストをお迎えして、やりたいと思うんですけど、森辺さんから簡単にご紹介いただいてもよろしいでしょうか。
森辺:もう知ってる方も多いんではないかと思いますが、水野コンサルティングの水野真澄代表取締役社長に今日はお越しいただいてます。水野さん、よろしくお願いします。
水野:よろしくお願いします。
東:じゃあ簡単に水野さんのプロフィールをご紹介させていただきたいと思います。1963年生まれ。1987年早稲田大学政治経済学部卒業、同年丸紅入社。丸紅香港華南会社コンサルティング部長、M&C Shanghai South china代表取締役社長を経て、2008年8月末丸紅退職。同年に、香港にMizuno Consultancy Holdingsを設立し、現在は、上海、広州、日本にも拠点を持つ。中国でビジネス展開を行う日系企業に対してコンサルティング業務を推進するほか、新聞や雑誌の執筆など幅広い活動を行なっていると。さらに、ビジネス書を含めて書籍を25冊も出版されているということで、しかも日本語だけではなく、『中国人のルール』という書籍は韓国語にも翻訳されてますし、『初めての中国ビジネス』は台湾、香港と非常にグローバルに展開をされている方でして、非常に中国では特に有名な方だと思うんですけど、森辺さんもすごいよくご存じですよね。
森辺:もうあこがれの存在で、当寺の話をちょっとすると、2002年なんですよね、僕が香港、深センに会社を作ったのが。で、その当時水野さんはもう既に有名で。結局水野さんの背中を追っかけてじゃないですけど、水野さんの専門領域としていないところに自分がいかに入り込んで(笑)、かぶらないように成長していくかなんてことを考えながらずっときていて、本も僕もうほとんど目通してると思いますし、いわゆる大手の外資のコンサルファームのアジア展開支援なんてやってる支援者の人たちはこの水野さんの本を読んで育ったといっても過言じゃないんじゃないかなというふうに、そんな人だと思っています。じゃあ水野さん、すいません、さっそくこれから何回かご出演いただくわけなんですが、まず水野さんの創業からのお話を含めて水野さんなりの水野真澄の自己紹介をちょっと(笑)、していただければなというふうに思います。よろしくお願いします。
水野:そうですね。どこから始めるかっていうのがなかなか難しいんですけれども、今ご紹介いただきましたとおり、私1987年に大学卒業後入社すると。まあなんか中国に興味あったんですよね。特に中国の経済やら政治ってあんまり、堅苦しいなって思ってたんですけれどもなんかよくわからないけど興味があるということで1回1985年、つまり大学3年生のときですね、1回バックパック担いで1カ月旅行したわけですよ。
東:そうなんですか。
水野:ええ。そのときは今と違いますので、
森辺:全然違うでしょうね。
水野:ええ。まずコーヒー飲めない、サラダなんて食べれない、冷たいお水すら飲めないっていう(笑)、そういう過酷な状況の中ですので。
森辺:85年ですか。
水野:ええ。だからそのときは1カ月で7キロ痩せて散々な目にあって裸で帰っちゃったような感じだったんですが(笑)。
東:どういうルートで行かれたんですか。
水野:まず最初に上海で、それから杭のほうの杭州、Hangzhouですね。で、そこから北京、広州、最後に香港で、日本。ってまあ行ったところは非常に限られてるんですけれども、今と違いますから、まず電車のチケット買うのも一般料金で買おうとすると一日どころじゃ、ああ、一日ですね、まずね。うまくいっても一日並んでなきゃいけないわけですよ。で、外国人料金だと2倍ぐらい払やすぐなんですけれども、ただやっぱり、ああでないこうでない、言葉もあのときはできませんでしたから、チケット買うのも一日がかりで(笑)。まああれが限界でしたね、あれだけ回るのが。
森辺:85年っていうと、まだ外国人が泊まれるホテルと、分かれてた時代ですよね、現地とね。)外国人専用、ローカルの人みたいなね。
水野:ええ。ですから本当にそういうところで。ですからまず、今やっぱり、これちょっと脱線になっちゃうんですけれども、僕中国で高いビルがあんなに立ち並んだことは別にさほど不思議じゃないと。何が不思議かっていうと、中国人がこれだけ笑顔が見れるようになったのはもっと不思議だと僕言ってるんですけどね(笑)。あの頃はまだ社会主義根強い頃でしたので、レストランに行ってもまず笑わないどころか注文取りに来てくれないと。で、立ち上がって手を振っても無視される。目が合うと目をそらされる(笑)っていう状況で。メニュー持って行かないととりあえず注文取ってもらえないという時代。ですからもう中国語もできないし、もう飯食うのも嫌になっちゃいまして、結局食べなくなっちゃったんですね。だから路上で売ってるバナナ一本で一食終わらせたりとか。で、最後に香港に、要するに帰る前に香港に到着して、何のことない、香港であまりにも自由に食べれるんで、そこで腹壊してさらに体重減らして帰ったっていう(笑)そんな状況だったんですけどもね。
東:じゃあそのときは香港が天国に見えたんじゃ(笑)?
水野:いや、天国でしたね。何のことないんですけど、今から思うと、スパゲッティハウスってあのくたくたのパスタとか、マクドナルドがあることだけでも感動しまして、これが天国かと思いましたね、あれは(笑)。
森辺:85年?
水野:85年の頃ですね。
森辺:学生のときのパック旅行と。
水野:そうです。で、そのときははっきり言ってもう二度と行きたくないとは思ったんですけれども、1年ぐらいして就職活動するときにまた何となくまた興味を取り戻して、中国に入りたいと言って商社に。あの当時入りたい、非常に変わり種だったんですね。ってやっぱり変わり種だったので、不思議なやつがいるぞっていうことで中国研修行ってみろっていうことで、2年間台湾と福建省に語学研修、実務研修に1988年から90年。
東:あ、じゃあもう入社して次の年?
水野:そうです。1年、丸1年働いてその研修に行かせてもらい、そこから一旦帰って7年間本社勤務して、97年に香港駐在と。返還前ですよね、直前。で、4年経ったときに香港でコンサルティングっていうのを始めましたと。で、あの当時は商社の中でコンサルティングをやる人なんていなかったですから、ですからどうせ期待されてなかったんですけれども、やっぱり、私自身も大して自分の自信がなかったんですが、やり始めてみたらなんかうまくできちゃいまして、で、コンサルティング部っていうのを作ってもらったりですとか、丸紅100%出資で香港と上海にコンサルティング会社を作ってもらって社長になったりですとか、そういうことが2001年から、つまりコンサルティング始めたのが2001年ですから、2001年から2008年にあったんですが、そうこうしているうちに商社の景気が非常によくなってきちゃいまして、コンサルティングみたいに数万円単位で出資をするようなやつっていうのはいまいち間尺に合わないっていう、そういう話になっちゃったんですね。っていうことでコンサルティング事業撤退の方針が出ましたので、私が部下と一緒に会社を辞めて、水野コンサルタンシーというのを立ち上げましたと。で、今5年経過して今に至るって、こういう話ですね。
森辺:それがちょうど2008年?
水野:2008年ですね。8月末に辞めて9月1日ですということで、あと1カ月ぐらいで5周年記念という、そういう。
森辺:それで、その2002年に僕向こう行ったときに水野さんはもう既に広東省中心に有名だったので、存じててあこがれの存在だったんですけど、当然、「すいません、会ってください」って言えるような、そういう立場じゃなかったんで、それで5年間、「水野さん、水野さん」と思いながら自分で事業やっていたら、たまたま2007年か、8年か。
水野:2008年の頃ですね。あれは僕独立して、独立した最初の週でした。独立して3日ぐらい経過したときでしたね。
森辺:そのときに中国と香港を、今はどうなんですかね、フェリーが中心なのか、当時バスが。
水野:ええ。で、あの当時は非常に遅かったわけですね。で、僕も、ですから前の丸紅にいたときの先輩が中国の深センに駐在してて、で、「ともかく今日は好きなだけ飲ませて食わせてあげるから」。まあそこまではいいんですけど、でも「でも鉄道が動いてる間は帰さないよ」って言われたので、結局24時間あいてる皇崗(ファンガン)ボーダーっていうバスのルートを通るしかないので、しょうがないのでそこから帰って、だからまあ香港に着いたときはもう3時とか、深夜のね。で、そこでぐったりしてるときに森辺さんから挨拶いただいて名刺交換したっていうのがきっかけ。
森辺:そう、それが初めてなんですよ。僕もお客さんの先に行ってて、夜中にボーダー越えをしてて、バスしかなかったんで。で、バス乗ってたら水野さんが乗ってきて僕の前通り過ぎたんですよ。「あれ、あの顔は!」と思ってね。「水野さんだ!」と思って、降りるときに思い切って声をかけたら、非常に優しく「ああ、そうですか」って言って名刺交換していただいて、そこからおつき合いが始まったっていう。
水野:まあでもね、あのとき要するに、普通だったら電車で僕帰るので、電車で普通だったら帰ってて。バスもたくさんあるんですよね、行き先が。ですからあれはたまたま湾仔(ワンチャイ)のコンベンションセンターに着くやつだったんですけれども、それに乗ったのもある意味偶然で、幾つかの選択肢の中の一つをたまたま時間近いからだったし。
森辺:あんな時間に僕も一人でボーダー越えなんて、怖いし、絶対やらないですよ。もうあのときはね。
東:しかもまだ2008年っていったら結構まだね。
水野:(笑)
森辺:それがもともとの出会いですよね。
水野:で、やっぱりあのときはまさに起業独立して、できれば定年までいたいと思ってましたので、定年までいて、そしてコンサルティング会社を作れたらベストだなと思ってたんですけれども、それが急に辞めることになって、事業方針、事業撤退で辞めることになりましたので、やっぱり当時はまだこのまんまやっていけるかどうか、生活上の不安も非常にたくさんありましたしね。ただ非常に思い出深いっていうか印象深いっていうか、いまだに思い出に残ってるあの数カ月であり、最初の独立した1週間の中で出会ったという意味では、非常に森辺さんの印象深いっていう。
森辺:でもなんか、丸紅から独立をされて、事業をスタートしたわけなんですが、外から見てると、結局お客さんが、水野真澄のコンサルテーションを受けたいっていう認識をすごく強く持っていて、結局何の苦労もなくそのままポンポンポンといってしまったようなイメージがあるんですけど、そこはやっぱりご苦労はあったんですか。
水野:そうですね。ですからやっぱり、いくつかあるんですけれども、例えばそれはコンサルティングっていうものを始めるとき、あと、ある程度の一定期間育ってから、まあ両方ありますけれどもね。最初、僕のことを知っていただいた2002年っていうのは非常に僕にとって順調な1年だったんですね。つまり2001年にコンサルティングを始めました。ただそのときは始めるよって言っただけで、別に誰も水野なんて名前知らないし、連載原稿持ってたわけでもないし。で、そのときに思ったのは、社内で知る人ぞ知るなんていうのは要するに普通の人は知らないってことなので、これじゃだめだねと。だからある程度、社内の方にどうやって名前と顔を認知していただくかっていうのを考えないと、コンサルティングの仕事なんてできないね、なぜならばやっぱり丸紅っていうのは商社として非常にブランドなんですけど、コンサルティング会社としてのブランドは当然ないわけですから、コンサルティング事業なんて今までやってなかったわけですから。
森辺:河南では有名でしたよ(笑)河南省。
水野:いやいや、僕が初めて、とりあえず初めてコンサルティングをやるよっていう認知があった頃ですから。
森辺:ああ、そうかそうか、当時から。
水野:ですからそれまでは別に「丸紅です、コンサルティングさせてください」って言っても、「いやいや間に合ってます」っていう、そういう話になっちゃうわけですね。
森辺:最初はやっぱりそうだったんですね。
水野:そうなんです。だからどうやってやったらいいのかなというと、まず一つは差別化。社内でもよく言われたんですね、始めるっていったときに、そんなの公認会計士も弁護士もたくさんいるのに、商社の管理部門の人間なんかに相談するやついないよっていうのが主流だった。そこで僕が考えたのは、やっぱりまず強み。公認会計士とか弁護士とどこが違うのかっていうところをまずは認知していただかなけりゃいけないと。で、そうだとしたら、やっぱり法律がわかってるのは当たり前として、実務経験があります、現場ではどういうことが起きています、それがちゃんとわかります、そして解決してきましたっていうことがまず差別化のポイントなので、それをまず全面に打ち出しましょうと。で、全面に打ち出すためにはやっぱり文章ですとか、そういったようなかたちで表さなきゃいけないので、連載原稿、まず最初のうちは、まず水野なんてどういう人間だか知らないですから、書かせてくださいっていう、そういう話になっちゃうわけなんですけどね。で、そういう話でいって。最初のほうもね、僕、自費出版なわけですよ。それが、全然期待してなかったのに売れちゃって、日本の書店にも並んじゃったので、そこだからポイントになったんですよね。だからそれが最初の一つのきっかけですね。
東:中国の駐在員で知らない人はいないっていうぐらい知名度がありますよね。
水野:最初はそんなもんだったんですね。で、そこから本が思ってもみなかったんですけど売れちゃって、コンサルティングのビジネスが知らないうちに取れちゃって、そもそもさっき、今言いましたように、誰も期待してないわけですから、ちょっとできればすごいすごいと皆ほめてくれるわけですね。ですから最初はインターネットで、香港ポストっていうフリーペーパーだったのが、それが通信社になったりNHKのテレビに出たり、そこら辺が2002年の冬ぐらいまでで1年ちょっとぐらいの範囲でボボボーンといっちゃったわけですよ。で、本もやっぱり、その最初の1年ちょっとで2、3冊出したんですかね。で、なのでそのときすごくいい、つまり2002年の大みそかっていうのは、本当にいい1年だったなって言って、こう。
森辺:ああ、終わったわけですね。
水野:で、ただ、誰も期待してないうちはちょっとやるとほめてくれるんですが、ちょっとできるようになってくると、人の期待も高くなってくるので、去年より俺は倍やったのに、それなのにまだこんなものかっていうことで誰もほめてくれなくなってっていう、そういう話が起こるようになってくるわけですね。ですからやっぱり2003~2004年ぐらいからプレッシャーが非常に強くなってきた。で、そうこうしてるうちに、商社っていうかどの日系企業もそうですけど、背番号があって、要するに私は経理の人です、財経の人ですっていう背番号で駐在していたので、やはり現地側も本部側も非常に理解があったので、とりあえず水野が満足するまでいていいって言ってくれたのでね。ですから僕1997年から2008年までずっと駐在員でいたんですけれども。
森辺:すごい。
水野:11年。ただやっぱり完全に駐在員である以上、ローテーション化を全く無視するわけにはいかないし、さらに一生やっぱり海外に居続けるわけではない。ただ僕、このコンサルティングのビジネスっていうのは僕が海外、香港や上海の海外発信で始めたことなので、日本に戻ったらもうそれってなくなっちゃうわけですね。だからやっぱり自分の人生っていうかこの先、やり始めたことを守るためにどうしてったらいいだろうなっていうことをいつも考えざるを得なかったですし、その過程において、やっぱり前の会社っていうのは非常に気に入ってましたけれども、やっぱりいつか辞める日が来るんじゃないかなっていう、そういう予感っていうのはありましたよね。
森辺:なるほどね。で、今は水野コンサルタンシーを設立して、これは本社は今は?
水野:それは香港ですね。
森辺:香港ですよね。で、日本は代表事務所?
水野:代表事務所で。
森辺:で、日本でも中国でも香港でもサポートができるという、そういう体制になってるんですよね。
水野:そうですね。ですから今ありますのは、香港、上海、広州が法人で、あと日本が駐在員事務所。ただ、今、記帳代行ですとか税務申告の代表の会社は上海で持ってますし、今月深センで営業許可証取りましたから、そちらのほうがまた一つ増えますと。あとコンテンツの、アジアですとか中国のコンテンツ配信の会社はまた合弁会社ですけど日本にありますので、今のところはこんなところと。あと北のほうにどう作っていくかっていうのがちょっとこれからのポイントなんですけれども、まあとりあえず今のところ、5年間でこれだけ拠点作ったわけですから(笑)、まあまあ頑張ったかなっていうほうですよね。
森辺:しかも華南発で中国全部いくっていうのもなかなか珍しいパターン。大体上海か北京発で華南攻めする、みたいなイメージが。
水野:やっぱり、最近随分変わってきましたけれども、やっぱりもともと中国には法律がないなんて言う人がすごいたくさんいて。いやあるんですよ、前からあったんですからね、知らないだけで。その言ってる人が知らないだけで(笑)。ただ特にその中でも広東省は特殊だっていう認識が非常に強いわけですね。確かに東莞(ドングァン)やら何やら、非常に特殊な運営をやってるところはたくさんありますけれども、ですから上海とか北京でコンサルティングを始めた方っていうのは広東省のことを聞かれるのを非常に恐れるわけですよ。逆に言うと広東省の方は上海とか、要するに上に登っていくことを非常に恐れるわけですね。だから広東省から離れると、その自分の広東省の城の中だけでっていう方が多いんですけれども、一応ほめていただいたのは中国歴の長い方にほめていただいたのは、あれだけ法律があるのかないのかわからないといわれてる広東省の実務運用を法律に乗せたのは水野が初めてだろうから、それはすごいねって言っていただいたのは確かですし、そこからまた上海だ北京だ、やっぱり上のほうに登っていって、そこで一つの拠点を築いたっていうのは、まあよくやったかなとは思ってますけれども。
森辺:そうですね。今、そうすると、全土でどのぐらいの顧客がいらっしゃるんですかね。
水野:今の会員、この契約をベースにしてるんですけれどもそれで280社っていう、そういう。
森辺:すごいですね。なるほどなるほど。で、そのクライアントにコンサルティングサービスを提供していってと。じゃあまた、今日はそろそろお時間が来てるので、水野さんが会社で提供しているサービスとか、あと水野さんの起業から今の至るまでの経験談を含めてまた来週話をお聞かせいただこうと思います。じゃあこんなところで今回の収録は終わりにしたいと思います。どうもありがとうございます。
水野:すいません、どうもありがとうございました。
東:ありがとうございました。