東:こんにちは、ナビゲーターの東忠男です。
森辺:こんにちは、森辺一樹です。
東:引き続き、ヤクルトの元平野さんをお迎えしてやりたいと思うのですけど、今回はどういったお話で。
森辺:平野さん、どうも。また、ありがとうございます。よろしくお願いします。今回は、前回はヤクルトの元専務平野さんが大学を卒業してからヤクルトに入るまでと。フリーター8年やってという面白いお話をお聞かせいただきましたが、今回はビジネスよりのお話をさせていただければなと思っていて、リスナーの方々でヤクルトを知らない人はまず多分いないと思うのですが、ヤクルトが実は世界中ほとんどの国で飲めるということを知らない人が結構多いのではないかなと思っているので、簡単にご説明すると、やはりアジアに行っても、南米に行ってもアメリカに行ってもヨーロッパに行ってもヤクルトは必ず大手の小売店、それから小さな小売店を含めていろいろなところに売られている。世界的に非常にグローバルなドリンクであるという認識を私は持っているのですが、平野さんがもともと国際事業部というところにいらっしゃったと思うのですけど、その国際事業部の時のお話というか、ヤクルトのときの国際化とかグローバル化についてお話をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?
平野:ヤクルトがグローバル化する前提として、健康というのは人類普遍の価値であるということがあると思うのです。それを盛んに言ってきたのがヤクルトの創業者である代田稔という細菌学者なのです。ヤクルトという腸内細菌というものが人の健康の上で非常に重要な役割を果たしているということを、細菌学者として突き詰めていった人なのです。この重要な健康の役割を果たしている菌を体外に取り出して、それを培養することによってそれを飲むということによっていわゆる健康というものに役立つ商品になる。そういうことで出来たのがヤクルト。それで私自身、ヤクルトの創業理念というものは絶対正しいという信念が、その代田稔のとつとつとしゃべるしゃべり方から聞いていて、この人が言っていることは正しいことではないのかとほれ込んでしまった。要するに、ヤクルトの創業の理念にほれ込んでしまったというのがあるのです。こんな信念を持っている、創業の理念がある会社。これは自分の人生にとって意味があるということでのめり込んでしまったわけです。国際的な仕事というのは、まず最初に台湾に進出したというのがあるのです。台湾は日本語もほとんど通じるし、それから代田稔の細菌学者の弟子みたいな人が台湾にいたのです。それで台湾にいた人が日本の健康飲料、保険飲料であるところのヤクルトをぜひ台湾でもやりたいということで、台湾がやり始めたわけです。その次にブラジルでスタートしたのです。それは、ブラジルにやはり代田稔のことをよく知っている日系人がいました。あそこは日系社会が非常に強い力を持っている。ブラジルでもブラジル人の健康のためにヤクルトをぜひやってほしいのだということを頼まれまして、ブラジルでやるようになったわけです。それで、中国人の華僑情報ネットワークみたいなものが広がって、フィリピンの華僑系の人がヤクルトをどうしてもやらせてくれと。フィリピンのゼネラルホスピタルの理事長をやっていた人たちなんかがフィリピンでやらせてくれとか。それから、いろいろな国から声がかかるようになった。ところが、ヤクルト本社自身には海外で仕事をやったことのない人間ばかりがいるわけです。要するに海外のことを良く知らないということです。海外のことをよく知らないけれども、一応日本から出て行く海外事業所なものだから、日本人が指導するような立場になってしまったと。これが1つ問題だったのが、現地のことを知らない人間が会社経営の指導をするのだから、いろいろなトラブルが出てくるわけです。
森辺:今の日系企業もほとんどがそうです。
平野:要するに、現地の文化を知らない、習慣を知らない。現地の価値観が分からない人間がヤクルトの日本国内でやっていることを押し付けるようなことにならざるを得ない。
森辺:いいこと言います。
平野:トラブルが出てしまって、パートナーとけんかになったり、それからパートナーと意見が、そりが合わなくなってお互いに口も聞かないというような仲になったりするわけです。ところが、その当時の東南アジアは必ず外資は少数株主なのです。
森辺:外資規制がありますからね。
平野:その国のマジョリティーの中で。ヤクルトがせっかく海外に誘われて出て行ったけども、相手と仲が悪くなって撤退に追い込まれるような状況になるわけです。ブラジルの日本人社会だとか、それから台湾なんかはうまくいったのです。非常にこれはうまくいった。
森辺:これはやはり日本を好きだという?もともと日本人だというのが?
平野:台湾なんて日本の土地が長かったから。
森辺:なるほど。そうすると、平野さんが入社したときには、言ったら平野さんは九州のセールスをやっていたわけではないですか。そこからずっと国内をやってあるとき海外を見るようになった、そういうイメージなのですかね?
平野:そうではなくて、九州でやっていたのも6カ月から1年弱なのです。すぐ飛ばされまして。次の支店に行った。次の支店は中国支店で、宇部ヤクルトの再建の。これは競争相手に乗っ取られてしまった地区なのです。競争相手に乗っ取られた宇部ヤクルトでまたセールスの仕事をやっていた。ところが、ある支店採用であったセールス部隊の連中を研修するということがありまして、研修会に出席させられた。熱海でやったのですけど、そのときに本社の常務、専務クラスからそれから社長クラスまで研修会に顔を出して。それぞれ自分の専門分野を説明する。よく理解できたのです。その頃、松園(尚巳)さんがトップでやっていた。松園さんはヤクルトのスタートだとか、ヤクルトの理念だとか、ヤクルトの創業の考え方とかを説明して、それもよく分かった。僕は何か質問ないか?ということなのです。松園さんは怖くて偉い人なのです。新入社員で入った人間は怖くて質問なんかしないわけです。ただ僕は、手を挙げて質問をしたのは、ここに集まっている若い人間は銭金の上で仕事をしているのではないと。銭金で仕事をしているわけではなくて、将来この会社はひょっとしたら素晴らしい会社になるに違いないという異名を持って仕事をしているのだと。この会社は具体的に5年後、10年後にはどういう姿になっていますか?という質問をした。そうしたら、松園社長が私の顔をジーッと見ながらお前は大学出ているかと聞くのです。早稲田出ていると。学部は何だというから、法学部だと。法学部か、今いろいろな販売会社との契約の問題で本社では大学の法学部を出た人間が必要だと。だからすぐ本社に来いということを私に直接ではなくて、専務にそれを言って出て行ってしまった。私が言った質問に対して何の答えもなかった。僕の直属の上司だとか、全然知らないわけです、そんなこと。すぐ5月から4月に研修があって5月のはじめから本社に行けということになって、それで僕が本社に行くことになった。本社に行くことになって、そうこうしているうちにフィリピンのヤクルトのパートナーとヤクルト本社とはものすごく仲たがいをして、フィリピンのパートナーは本社から役員が来てもマニラ空港から中に入れないという状況になってしまったわけです。フィリピンをなんとかしないといけない、場合によっては撤退しないといけないという状況になったときに、僕がちょうどある販売会社。東京の杉並は、中野を担当している販売会社の僕は社長代行をやっていた。社長代行をやっていたのですけど、フィリピンなんかに行く人間は誰もいないわけです。要するに、誰もそんな仲違いをしているようなパートナーとの喧嘩しているようなところへ行く人間はいないわけです。
森辺:危ないですね、下手したらフィリピンなので。
平野:それで、結局上から押し付けられて、フィリピンの状況を見てきてくれないかと。僕クラスの人間ならパートナーも空港は入れてくれるだろうということもあったのでしょうけど、実は1つ理由があったのです。それはどういうことかというと、フィリピンに日本人社員が6名行っているわけです。その中で営業をやっている人間の営業の担当責任者がいるのです。その営業担当責任者が専務のところに切々たる手紙を出している。その手紙で、フィリピンというのはものすごく市場として素晴らしいところだと。パートナーの意見を聞きもしないで撤退をするみたいなことは、とても自分たちが一生懸命努力をして市場を広げていっているのに、考えられないと。1回、今までフィリピンに来る役員がみんな営業を知らない連中だと。営業の分かる人間にフィリピンの市場を見てもらいたいのだという手紙が行っているわけです。それで営業をしているわけです、僕が。
森辺:それで平野さんが送り込まれたと。
平野:それで送り込むときに、再建をしてくれということは言わないわけです。要は市場を見てこいと。僕はそのときちょうど、他の企業から京王グループの企業からスカウトがかかっていたのです。辞表を出していた。フィリピンの調査を済ませたら辞表を受け取るからと。それで僕は行かされてしまった。それで、ルソン島の北からミンダナオ島まで市場をその男と一緒に見て歩いたわけです。営業責任者の。
森辺:当時何年ですか。1900?
平野:80年。
森辺:80年といったらものすごく前ですね。30年ぐらい前ですね。
平野:それで見てみたらマーケットが素晴らしい。文句の付けようがない。営業担当責任者が言うように、このフィリピンのマーケットこそ代田稔が言っていた、要するに貧乏で医者にかかれない、それから高い抗生物質だとか薬を買えない。そういう人たちが、代田稔が言っていたヤクルトを本当に飲まないといけないのはこういうマーケットの人たちではないのかという気が僕はしたわけです。それで、その営業担当者とそれからずっと市場を見て回った人のメモをいっぱい書いて、それで一緒に連れて行った人間、若い人間がいるのですけど、それにメモを渡しながら僕はフィリピンのいわゆるミンダナオ島なんかはイスラム系の連中がフィリピンから独立するというグループが開放善戦というのがありまして、そういうところを見て歩いたけど、やはり健康というのは世界の共有普遍価値だなというふうに思ったのは、政治的にはフィリピンから独立するというテロ行為をやっている人たちも家族の健康のことはものすごく熱心なのです。ところが貧しいから医者にかかれない。そういうのをずっと見ながら僕は帰ってきて、フィリピンの再建計画を組んだのです。再建計画を組んで、それを提出したら僕は辞めてもいいという、辞令を受け取るということになっているわけ。そうしたら、一生懸命再建計画を組んだ。僕はものすごく累積している赤字は8年かかると。ところが再建そのもの自身は3年で再建できる、いわゆる形状出資はプラスになると。累積赤字は8年かかるという再建計画を組んだ。辞めるということになりましたので、気になさらずに自信をもって再建計画を組んだわけだ。その自信を現地で出してくれないかということになりまして。それで僕はフィリピンに行くようになった。というのは、僕が自信をもって再建計画を組んでいるから、再建計画を組んだ以上逃げるわけにはいかないような状態に追い詰められてしまって。
森辺:面白いですね。ぜひ、引き続き聞きたいので今回ちょっと時間を延長してしまっているので一旦ここで切りますけど、次回引き続きフィリピンの再建の話をお聞きしますので、ぜひ次回よろしくお願いします。すみません、リスナーの皆さん。次回もフィリピンの話を引き続きお話をさせていただきますので、よろしくお願いします。
東:よろしくお願いします。