東:こんにちは、ナビゲーターの東忠男です。
森辺:こんにちは、森辺一樹です。
東:森辺さん、今日はゲストをお迎えしているのですけど。
森辺:久々のゲストなのですけど、今日は元ヤクルトの専務取締役の平野さんをお招きしております。平野さん、どうぞよろしくお願いします。
平野:よろしくお願いします。
東:まず、平野さんの簡単なプロフィールからご紹介したいと思います。
森辺:お願いします。
東:平野さんは早稲田大学の第一法学部卒業、熊本出身であります。就職による束縛が嫌でプー太郎として土方やトラックの運転手、喫茶店のボーイ、最後にペンキ職人になると。今でいうフリーターの草分け的な存在なのかなと。飯を食うのにはサラリーマンが一番楽だと分かり、ヤクルトの九州支店にセールス部隊要員として中途採用される。43年よりヤクルト本社採用になり、各部門支店業務、そして国内ヤクルト販社の経営実務を体感学習していく。その後、経営危機に陥ったフィリピンヤクルトの再建のため、経営執行副社長として経営の立て直し業務に入る。以後、各国のヤクルト事業の再建や世界各地での新規事業所設立を手がける。ヤクルト内ではヤクルトの再建屋の異名を頂戴する。その後、ヤクルト本社に59年取締役に就任されていて、61年に常務取締役に就任されています。以降ヤクルトの国際事業を統括しながら海外各地の事業所の新規設立を進めたり、既存事業の経営改革をすると。海外現地法人の社長、会長などを歴任されて、ヤクルトの世界ブランド化。世界企業化戦略を進める。平成15年、10年前ぐらいですかね。ヤクルトの本社の専務取締役国際事業本部長を退任されていますと。その後、ヤクルトライフサービス代表取締役社長、日本マーケティング協会常任理事などを歴任。大学や企業の経営者研修や経済関連団体での講演を行う。平成16年、アジア人として初めてフランスの食品大手であるダノン本社の社外取締役に就任されます。
森辺:10年ぐらい前ですよね。
平野:そうです。
東:年6回ほどパリの取締役会に出席する。ついでにヨーロッパ各国の人たちに日本の経営や文化、ヤクルト哲学などについてレクチャーしたり議論し合うと。平成20年、全ての職を辞し、感性空間・オフィス平野を設立。頼まれごと、引き受け企業として様々な大学で講義、講演をしたり、企業の経営相談にのったりして現在に至ると。すごい経歴ですね。
森辺:すごい経歴ですね、平野さん。ぜひ、よろしくお願いします。フリーターからヤクルトの専務、そしてダノンの社外取締役と大変多岐にわたるご経歴をお持ちなのですけど、第1回目とういことで平野さんの今、東が紹介をしました早稲田出たあとに8年間フリーターをやっていたということは、どういうことなのですか?フリーターがいきなり専務になるとはヤクルトはすごくいい会社だなとイメージを持ってしまったのですけど、どういうことだったのですか?
平野:学校に所属はしていたのですけど、あまり学校にも行かないで遊んでばかりいたわけです。それでパチンコはプロ級のパチラーだったわけです。
森辺:パチプロというやつですね。
平野:うん。いわゆる遊んでばかりいたので、親父がお前を遊ばせるために苦しい中から仕送りをしているのではないということになりまして、仕送りを止めてしまったのです。親父から言わせれば勘当みたいなものです。自分で飯を食べなければいけないようになったわけです。これがフリーターになった1つの理由です。要するに金を稼がないといけない、仕事をして金を稼がないといけないという状況に置かれたと。結局フリーターみたいに金になりそうな仕事をやってきたわけですけど、もう1つ特徴があります。私が遊んでばかりいたと言いますけど、ものすごく好奇心が強い男で、行ったことがないところへ行ってみたい、やったことがないことをやってみたい、食べたことのないものを食べてみたい、そういう好奇心がめちゃめちゃ強くて。好奇心に任せて僕はいろいろな分野の本を読んでいたわけです。だから雑学の中で生きていたみたいなものです。その雑学の中で、たとえば今は「あいりん地区」といっていますけど、昔は釜ヶ崎と言っていたところに飛び込んで、土方のタコツボの中に入ってみたりとか。それで土方をやって、土方をやったときの物語はたくさんあるのですけど、たとえば私は生まれが九州なものですから、九州にはリンゴの木がないのです。だから、リンゴの木を見たいということで無銭旅行をやっているときに青森に行って、青森のリンゴ農家の中に住み込んだり。リンゴがいっぱいなっている山のように落ちたリンゴを集めてジュースを作ったり、ジャムを作ったりしている工場をみてビックリしたり、リンゴというのはきちっと箱の中に収められているものだとばかり思っていたけど、トラクターでリンゴを運ぶようなのを見て、文化的衝撃を受けたり。そんなことばかりやっていました。
森辺:それを8年ぐらいやっていたのですよね。
平野:そうです。
森辺:それがなぜ急にヤクルトに入ったわけですか?
平野:最終的に私はペンキ屋の仕事が金になるということを、売れないガキどもに言われまして。金になることならばペンキ屋になろうということで、ペンキをやっていたのです。
森辺:土方をやって、運転手をやって、喫茶店のボーイもやってペンキ屋もやったのですね?
平野:ペンキ屋が一番最後です。ところが、その当時のペンキの世界というのは、大学出はいないのです。大学出でペンキの職人になる連中は聞いたことがないと言われるので。ところが大学出のペンキ屋になった男がいるので、ペンキ屋の世話役たちが私に何名か職人を預けるということになって、職人を養っていく立場になったわけです。世話人たちがなんで私に職人を預けるようになったかというと、平野は大学を出ているから仕事を取ってくるに違いないと。仕事を取る話術、話題を持っているに違いないと。ところが職人を預けられて何名かの職人を養っていくために、あちこち仕事を取りにまわって歩くのですけど、東京都の仕事だとかそれから公団住宅の仕事だとか、いろいろなところに出掛けていって仕事をくれという風に言っていくのですけど、日本は談合社会なのです。だから談合社会で顔がきかない限り絶対に仕事が取れないのです。私みたいに中途半端な人間に仕事をよこすという会社もなければ、談合に参加もさせてくれないわけです。いわゆる星取り表というのがありまして、次は誰が星を握るというのが決まっているのです。ところが職人を預けられて、職人を預けられたと言うよりも大学卒業している平野さんと一緒に仕事をしたいという連中がいたのです。アルバイトもたくさんいました。ところが、50名ぐらい私の下にいたわけです。その連中に仕事を取ってくるというのが大変なことなのです。結局、談合で競り落とした人たちの下請けの仕事を分けてもらうということになる。ところがペンキ屋の仕事というのはもうかるときにはもうかるのですが、東京都の仕事はめちゃくちゃもうかるわけですけど仕事がないときは全然実入りがないわけです。しんどくて、仕事を取る、それを職人たちに分けてやる、それでアルバイトにアルバイトの費用を出してやるなんてものすごくしんどいのです。一方で私がお邪魔する会社というのは、ネクタイをした連中がいて、庶務課とか営繕課とかの人間です。ペンキ屋というのは下等動物みたいな扱いをするわけです。ペンキに汚れて出入りするから、正門から入れてくれないし、当然だけども。それで私にどうも言葉つき、その他から言われてもまだ若造のくせに下等動物みたいな扱いをする。そういうことと、仕事を取るのが嫌だということと、それから職人を養っていくということがものすごくしんどいということがありまして、よく見たらサラリーマンは仕事らしい仕事をしていなくてもちゃんと給料くれるのですよね。給料をくれて、何か知らないけど職人が入ってくると下等動物みたいな扱いをしながら、何かサラリーマンが一番楽な仕事なのではと気付いたわけです。
森辺:来月、再来月のご飯には困らないですからね、サラリーマンになれば。
平野:それでサラリーマンの仕事というのは一番楽だなというのと、もう1つはその頃ある女と一緒になっていまして、その女との間に子供が1人いたわけです。僕に早稲田の卒業式も出してくれた女が、もうかるときにはもうかるようだけど、やはり額が小さくても定期的にきちっと収入がないとやっていくのは難しいねというようなことを言うわけです。その2つの理由で僕はサラリーマンというのを1番楽な仕事だなと思いながら、たまたま九州でうちの親父がヤクルト関連の仕事をしていたのです。それで、ヤクルトの偽物部隊が、ヤクルトが名前を変えたなんて言いながら、九州地区であっていろいろな本数を広げていっていたのです。だからヤクルト本社としてもなんとかしなければいけないということで、セールス部隊を編成するということになった。だから僕はちょうどサラリーマンが1番楽な仕事だなと思っていた頃だから、親父からそういう話があって、お前ヤクルトの仕事やってみないか?というようなことがあって、それでヤクルトの九州支店に採用されて入ったわけです。だから、毎日、毎日セールス部隊です。毎日、1軒1軒家を訪問しながらヤクルトを売って歩く仕事。でも、自分自身としてはそれで給料もちゃんと安定しているし、面白い仕事だったのです。というのは、いろいろなお客さんといろいろな話ができるし、その中でヤクルトはどうして世の中にあるのかという、ヤクルトが生まれてきたルーツみたいなことを話すこともできるし。だからそれがヤクルトに入るきっかけなのです。
森辺:なるほど。結局大学は卒業、早稲田卒業して8年経って、フリーターをやってそこから九州のヤクルトに入って、セールス部隊に入りましたと。そこからどんどん出世をしていったわけですよね。1番楽だと思って入ったヤクルトで、気付いたら最後専務まで行っていたと。
平野:要するに楽なことをやっていたら、めちゃくちゃ僕は昇進が早かったのです。
森辺:それは何でなのですかね?
平野:昇進が早かったというのは、誰かが平野は面白い男だということで目を付けていた人間が上司の中にいたということでしょうね。僕はヤクルトに入ってから18回人事異動をやっていたわけです。
森辺:すごい。しかも中途になりますものね。日本の会社だと中途か新卒かで違ったりするではないですか。扱いが。
平野:僕は長くて2年半に1回ずつ人事異動で交代している。それは2つの理由があって、1つは平野みたいな訳の分からないことを言って訳の分からないことをやる奴はとても俺のところには置けないという上司がいたということが1つ。もう1つは、こんな上司の下でもって、尊敬できない上司の下でもって仕事をやるなんていうのはばかくさいというので自分から出て行ったという。
森辺:そうしたら18回になったということですね。
平野:18回。
森辺:分かりました、平野さん。今日はお時間が来てしまったので、今後ヤクルトのグローバル展開。非常にどこの国に行ってもヤクルトは今アジアでも南米でもどこでも述べると思うのですけど、そういう海外の、グローバル展開についてまたちょっとお話を聞いていきたいと思いますので、またぜひ次回よろしくお願いします。ありがとうございました。